高田の特長③

高田の特長③

【高田婦人要典】昭和46年3月15日発行にの中に、高田の特長として書かれた文章を、中川が一部省略したものを紹介文として掲げます。

③聖人御真骨の伝蔵
聖人の御葬送に拝跪(はいき)された顕智上人は、聖人の御遺骨の一部を高田の本寺にお持ち帰らになり、若干を宝庫に敬置して残りを埋め、御廟を築かれました。今なお本寺には当時のままの聖人の御廟が拝されます。
第10代真慧上人は、本山を一身田に移されるに当たり、宝庫の御遺骨から少量を拝戴されて一身田の寺内に埋め、これを本山の御廟とされました。御廟の御遺骨を拝するに由ありませんが、宝庫に伝えられた御遺骨は現在も拝見し得る形で護持されている。しかも、近年になって、この御遺骨が紛れもない御真骨であることを裏づける史料が発見され、いよいよ高田の名を学界に高めたのでした。報恩講式に「遺骨を拝して腸を断つ」とあるように、昔は御遺骨を拝見する機会が与えられたものと思われます。

※本寺のご廟は、高田に伝わる親鸞聖人伝絵(最古のもの)に描かれた聖人の墓碑と同じ形式であるのが注目されます。
※本山のご廟は、寛文12年(1672年)基礎を石で積み上げた、「土まんじゅう」だけの質素なお墓で、歯骨5粒が埋められています。

高田派の特長②

高田の特長②

【高田婦人要典】昭和46年3月15日発行にの中に、高田の特長として書かれた文章を、中川が一部省略したものを紹介文として掲げます。

②聖人御真筆の伝持
高田教団が聖人の直弟子の教団であることから考えると当然のことではありますが、高田には聖人の御真筆の文書が数多く残されてきました。わが国に現存する御真筆の大半は高田の所蔵であり、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。
・三帖和讃(国宝)・西方指南抄(国宝)・唯信鈔と唯信鈔文意(重文)・尊号真像銘文(重文)・御消息10巻(重文)等があります。
御真筆の文書のほかに、真佛上人や顕智上人が聖人の御真筆を書き写されたなど、他にかけがえのない貴重な法宝物が多数伝持されています。

高田本山の如来堂の本尊

真宗の本尊 阿弥陀如来立像
高田派の特長として、本寺の如来堂のご本尊は宗祖感得の一光三尊仏像と言われています。
高田本山の如来堂のご本尊は阿弥陀如来立像です。今のご本尊は、第10世真慧上人が比叡山から受領したとの伝承があり、「証拠の如来」と称されています。
最近の調査では、無銘記ですが、快慶法眼時代の特長が認められていると言われています。

本山の如来堂の今の本尊の前の本尊として、考えられているのが、御対面所仏間の本尊です。
両手は来迎印を結び、衲衣(のうえ)を通肩に着て左足をわずかに踏みだす立像で、
「運慶法印弟子担馬法橋慶俊作 延応2年3月12日」の墨書があります。
延応2年は、親鸞聖人68歳に相当するので、伝来はつまびらかではないが、関東高田専修寺に伝わったものとすると、聖人帰洛後の高田教団の活動を知る史料であり、美術史上では慶派の基準作例として貴重な史料です。

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高田派の特長

・高田の特長
一番に思うことは、ご本尊のことです。【高田派宗制】三本尊及び影像に「わが宗派の本尊は、阿弥陀如来一仏である。本寺専修寺に限り、宗祖感得の一光三尊阿弥陀如来を本尊とする。(後略)」とあります。このことは、【高田派宗制】一宗史に「宗祖親鸞聖人は、嘉禄2年、下野国芳賀郡高田に一宇を建立されたとき、信濃国善光寺より一光三尊阿弥陀如来を感得して本尊となし、自行化他の根本道場とされた。これが本山専修寺の起源である。(後略)」に基づいています。

お寺のHPでも何度か一光三尊仏について書いたこともありましたが、親鸞聖人が善光寺聖として活動されたことにも想像を馳せながら、一光三尊仏も大切にされていることが高田派の特長ではないでしょうか。
【高田婦人要典】昭和46年3月15日発行にの中に、高田の特長として書かれた文章を、中川が一部省略したものを紹介文として掲げます。
①根本道場下野本寺と一光三尊佛
高田教団は下野高田の如来堂を中心に起こって、やがて、高田専修寺として、寺院の威容をととのえました。寛正6年(1465)第10代真慧上人が教線強化のため本山を伊勢国一身田に移されるに際し、下野の専修寺を本寺と呼んで本山と区別することになりました。下野の本寺は、聖人の御在世を伝える聖域として、古くから真宗の根本道場と言われ全真宗念仏門徒の故郷であります。
この本寺の如来堂に安置する御本尊は、聖人の夢にあらわれて善光寺から貰い受けたと伝えられる一光三尊佛であります。聖人みずから親しく御恭敬あさばれた尊像として現在唯一のものです。永く秘仏として扉を閉ざされていましたが、第17代圓猷上人の時代に初めて本山に出開帳され、以来17年毎に出開帳を仰ぐことになりました。

※次回、本寺の一光三尊仏の御開扉は、2030年(令和12年)です。後8年後を、早いと思うか、まだまだ先と思うかは、気持ち次第ですね。

寺院経営の危うさ

宗議会議員になって感じていること
先月25日から3日間、真宗高田派・真宗高田派本山専修寺の令和4年度の予算(案)を審議する宗議会が開催されました。
今年の3月から新しく宗議会議員になって緊張しながら初めて臨むものでした。
事前に予算(案)書類は送っていただいていますので、質問なども事前に提出できます。
中川は、予算(案)の説明資料などを確認しながら、真宗高田派・真宗高田派本山専修寺の会計が毎年(過去5年)経常赤字が続いていることを知り、驚きと同時に、規模は小さいですが、一般寺院の運営と同様に危ういことを改めて感じました。寺院だけではありませんが、多くの方からの浄財(布施・喜捨)で成なっている法人は、その法人を大切に思う方々が集まり続かなければ維持管理は難しいのかもわかりません。私ごととして考えていただけれる寺院活動をこれからも続けていかなければいけないと感じています。

高田のなりたち

高田のなりたち
私(住職)は、高田教団のなりたちについて改めて学び直しています。簡単でありますがHPに記載します。
親鸞聖人が越後から関東に移られたのは、健保2年(1214)のことであります。以降20年間にわたって茨城・栃木方面に念仏をひろめられ、教えがひろまるにつれて、念仏によって結ばれた人達がリーダー格の人を中心に集団をつくるように、それぞれの集団はその地域の名をとって、横曽根門徒・鹿島門徒とか呼ばれるようになりました。中でも下野国(栃木県)高田の真佛上人を中心とする高田門徒は最も有力な教団(集団)でありました。  高田には、如来堂があり、親鸞聖人の布教の根拠地となっていました。この如来堂は親鸞聖人が建立されたものと伝え「高田建立」の伝説になって来ましたが、恐らく聖人が関東に入られる以前からあったものでありましょう。高田は古来浄土信仰の地であったと考えられます。
真佛上人は、もと武士の出であったと考えられ、(親鸞)聖人より36歳年下で、若い頃から聖人に帰依して僧となり、聖人第1の高弟として深い信頼を得ておられました。(真佛)上人は高田に安住された方ではなく、極めて多方面に行脚され伝道に努められました。その足跡は遠く奥州(青森県)にまで及んでおります。
高田の教団が初期の真宗教団に於いて中心的地位を占めていたのは、1つにはこの真佛上人の深い法徳によるものでありました。現在、埼玉県の蓮田に「真佛報恩塔」という巨大な石碑が残っていますが、これは真佛上人54年忌に際して、お徳を慕う近在の門徒が150貫文という莫大なお金を集めて建立したものです。

親鸞聖人は60歳頃関東を出て京都へお帰りになり、以後の関東教団は真佛上人が中心でありましたが、(親鸞)聖人86歳の時、惜しくも50歳で先立たれました。あとを継いで高田を護られたのが顕智上人であります。顕智上人は真佛上人の17歳年下でありましたが、共に親鸞聖人面授の直弟(じきてい)として信任あつく、弘長2年(1262)聖人の入滅に際してはその葬送の指揮をとられ、大谷本廟の造成に大きな力をつくされたのみならず、その護持にも心魂を砕かれたのであります。
この大谷本廟が今日の本願寺となって発展したのですから、(顕智)上人は真宗教団の大恩人であると申せますし、高田教団が真宗の根本であるという意味が一層はっきり致しましょう。
顕智上人はまさに俊足の方で、各地を行脚され、北陸・東海地方まで教線を格調されましたので、高田の勢威はいよいよ振るいました。
親鸞聖人が関東におられる間に聖人の化風(けふう)を慕う門徒の数は何万にも達しましたけれども、聖人には御自分の教団を作るお気持ちは全くありませんでした。真佛・顕智両上人もこの宗祖のお心を忠実に継承されましたから、高田教団は自分の教団であるとか、自分が高田門徒の統率者であるなどというお考えは毛頭お持ちになっていませんでした。このことは、やがて高田門徒の主導権を他に譲ることにもなり易かったのであります。
※参考資料【高田婦人要典】昭和46年3月15日発行

ホタル

ホタル
6月になりますと、ホタルが気になります。

お寺のある場所は、小さな地方都市の街中であります。私(住職)が子どもの頃も、田畑は点在していましたが、ホタルを見ることはありませんでした。

そのことが、私(住職)の中で、ホタルは、はかなさや幻想的なイメージを持ち続けているのでしょう。

子どもが生まれて、幼稚園や小学校の低学年の頃、子どもにホタルを見せるため、車でホタルで有名な場所に行ったりしましたが中々ホタルを楽しむことはなかったです。

今の私(住職)の生活空間でホタルを見つけることは困難ですが、
茶の湯の世界では、ホタルを楽しむことができます。
お寺には、ホタルの描かれた掛軸や茶碗があります。お茶席に伺うと茶器(棗)や水指・茶杓にホタルが描かれたり、お菓子にも登場することもあります。
また、煎茶の茶碗もホタル手茶碗と呼ばれるものもありますね。花にも、ホタルブクロがありますね。

近状

近状
22日に法苑院妙華寺の親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年の奉讃法会を皆様と共にお勤めをさせていただきました。次の日からも片付けに追われ、25日~27日は宗議会が開催され、本山へ日参しました。この3日間は他のことが手につかず、お寺のHPのブログ更新もできずに一週間が過ぎてしまいました。また、6月に入ると夏衣への衣更えも控えあわただしく日々を過ごしています。
29日は、夏のような暑さになり、皆様も体調管理をしっかりなさっていただき、1日1日をしっかり生きていることを実感できる日暮らしを送りたいものですね。
29日の深夜(30日午前2時頃)は、セコムの侵入警報が鳴り、駆けつけたセコムの隊員と確認に行くと、センサーが虫を感知したようです。これからの時期広い本堂空間に、蜘蛛やヤモリなどの虫たちの活動が活発になるとセンサーが感知してしまうので、毎年、寝不足になることもあります。

【報告】講座ボランティア企画 郷土を歩こう 「久居藩の城下をたずねて」

【報告】講座ボランティア企画 郷土を歩こう 「久居藩の城下をたずねて」が5月18日に開催されました。青空の広がる中、20数名ほどの2つのグループが、妙華寺にもお越しいただきました。久居藩のことを書かれた『藤影(とうえい)記』の中にお寺(妙華寺)の屋根から空を飛ぶことを夢見た国友と言う男がいた伝承があり、案内されています久居城下案内人の会で、紙芝居として披露されています。また、この伝承に興味を持たれた長浜市の学芸員の方もお越しいただきました。
以前も、HPでご紹介させていただきましたが、長浜市に国友村(現在の国友町)があり、その村は、鍛冶集団の村だったようです。その一族の家(国友家)から江戸時代に書かれた飛行機図が発見されたことが発端でした。また、お越しいただいた学芸員さんからは、国友家について書かれた本があり、全国の「国友」姓のことが書かれている一文があるそうで、そこにも、屋根から空を飛ぶことを試みた話が出てくるそうです。今後、『藤影(とうえい)記』の一文との関係も調べると面白いかもわかりません。

お寺の災害時の社会貢献

お寺の災害時の社会貢献

妙華寺は三重県津市にあり、以前から南海トラフの大地震が必ずやってくると言われ続けている地域です。
地震対策として本堂や庫裡の耐震補強の改修にも取り組んでいますが、境内の全ての建造物(水屋や山門・鐘楼堂・塀)まではおよんでいません。

阪神淡路大震災や東日本大震災の被災者支援は、三重県の一寺院の住職も何かしなければと思う出来事でした。私(住職)は、何かしなければと言う思いを持っていても現地でのボランテイア活動などはできることもなく、僅かな義捐金を送ったり、追弔のお勤めをするだけでした。

多くの宗教者(団体)が現地でボランテイア活動をされていることは、阪神淡路大震災の時から世間は注目し、東日本大震災の時は更なる活動として宗教者(団体)の被災者支援が行われ、そこから宗教者災害支援連絡会が生まれたことは、多くの方がご存知と思います。

あるオンラインの講座で、稲場圭信氏(大阪大学大学院教授 共生学)の講演をお聞きしてから、ソーシャルキャピタルとしてのお寺について考えさせられ、また、お寺の社会貢献について多くの生活者が期待していることも知り、自坊のお寺でもできることはないか考える時間ができました。

その中でお寺のスペース(空間)が、被災者支援の場になり得ることを知り、自坊の取り組みの中で考えることになりました。

私(住職)も、被災地になった時の寺院としての災害時の被災者支援を、東日本大震災や熊本地震で被災された寺院の支援活動を参考にしながら、妙華寺の机上の支援活動を考えています。
境内の妙華寺会館は36畳(4間×4間半)の空間とトイレ台所があり、目の前にある指定避難所の津市久居中央公民館で集団避難が馴染めない方の避難場所として活用ができるように思っています。
また、避難場所としてでなく、支援物資の保管場所であったり、ボランテイア活動の方の集合場所にも活用できると考えています。

また、すぐさま実現できることではないが、境内の臨時駐車場として整備予定地も、十分活用できると考えています。

しかし、1度結論づけた考えが良いかどうかは判断できません。災害時の被災者支援の課題はたくさんあり、新たな課題も生まれてきます。絶えず考え続けることが大切なことのようです。

先日、宗教者の災害支援に取り組む情報提供の場にオンラインで参加させていただくことができました。

宗教団体に求められている社会貢献(全仏連のアンケート調査「仏教に関する実態把握調査(2021年度)報告書 2021年12月)の中の「お寺の取り組むべき社会活動」で
①、伝統文化・芸術の保存 ②災害時の避難場所(の提供)は、取り組むべきとの生活者の期待比率は高いことも知りました。

その時のテーマは「在宅避難」の支援と「行政との連携」でした。
①「在宅避難(者)」は、避難場所に集まるグループ(集団)生活に馴染めない方や、避難場所に行くことができない被災者のことを「在宅避難」としています。
多くは、障がい者や在宅介護の方などで、災害発生時に把握が難しいことが問題です。

平時に名簿などの作成が必要でありますが、個人情報の問題や行政の主管先が違うことで把握が難しいようです。宗教者(団体)でできることは、声かけで例えばメールアドレスの登録で該当者への安否確認や、「在宅避難」に変わる少人数の避難場所の提供が考えられます。

②行政との連携
災害時協定する宗教施設への公金支出が認められているようです。
概数ですが、災害時の避難場所として宗教施設の提供は4,000か所くらいあるようです。これは、公共施設小学校が全国で80,000か所と比べると約5%の宗教施設が協定を結んでいることのようです。
行政と宗教側の温度差もありますが、国としては災害時の宗教施設の活用を促進する方向性なので連携を取りやすくなる環境になると期待されています。

改めて、平時から地域のコミュニティの中で関係性を深め、いざとなったときに共助できる体制が大切であると感じました。