共通認識

共通認識
お茶の稽古は、「お茶(濃茶)をおいしくいただく」ことを分割して習うことです。
お茶をいただく時にお菓子が出されますが、お茶が出てくるまでにお菓子をいただきます。それまで、お茶とお菓子は一緒にいただくものと思っていました。日常生活では、お菓子を食べながら、お茶を飲むことは当たり前でした。自分流でおいしくいただくことで良かったのですが、お菓子はお菓子としておいしくいただく。そして、お茶はお茶をおいしくいただくことを突き詰めると、作法にならったいただき方になるように感じています。食事も、懐石・会席は、一品毎に目の前にだされて、それを食し、次の一品に進んでいきます。もちろん、定食などは一度に注文した料理が出てきますし、バイキングなど自分の好きな物を好きなだけ取っていただく場合も自分らしいなと思うこともあります。
少し、話題がそれますが、「仏様の前を通るとき、横切るとき、頭を下げる」
「畳を歩く時、畳の縁は踏まない」「座布団の正面」などの作法はご存知ですか。
知らなくても、日常生活で支障はありません。支障はありませんが、これまでの社会では当たり前のように受け入れていたルール(しきたり)で、その時代では、1つの共通認識だったのだと思っています。

今の時代に共通認識できるルール(しきたり)はあるのでしょうか。
中日新聞の人生欄で、能の「羽衣」の記事を拝読しました。日本文化に造詣が深い方はご存知だと思いますが、私(住職)は、高校生の頃、歴史か古文の科目で能で演じる「羽衣」の演目は学んだと思いますが、内容はついては、学んだかどうか、まったく覚えていません。一昔前なら、日本人の教養として能や歌舞伎の演目や俳句や和歌などが共通認識のもと、絵画や日常生活品などに趣向が取り入れられ、会話が弾んだと思うのですが、今はどうでしょうか。

日本に仏教が受容されてから、生活の中で、仏教語も数多く使われていましたので、仏教も共通認識されていた1つと思いますが、今は仏教も教養(常識)としての共通認識は難しい時代になってきているのではと感じています。
※中川個人の感想です。

変形性ひざ関節症

変形性ひざ関節症
6月に入り、右足の膝が痛み、整形外科を受診しました。加齢による老化現象で膝軟骨が減り痛んでるそうです。湿布薬と飲み薬(痛み止め)でしばらく様子を見ることになりました。その間も、衰えている足の筋力をつける運動を進められています。
そして、正座(座る)ことを当分禁止されました。
歳を経ることでこれまでできていたことが、できなくなることは、父母の姿を見てわかってるつもりでいました。しかし、実際、自分自身の身体がそうなると、うろたえます。生活の中で座ることは少なくなっていますが、痛みで座ることができなくなることは、やはり違います。衣を畳むことや、かがんで床に落ちたものを拾おうとするのも難儀な状態です。

今の状態は、お寺の住職として、大変なことです。お同行の皆様の自宅のお仏壇で、正座してお勤めするのが難しそうです。これからお盆が近づいています。それまでに回復できれば良いのですが、少し不安もあります。正座が難しい場合、ご無礼なことですが、立ってのお勤めになるかもわかりません。ご了承ください。

 

伊勢だより

伊勢だより
皆さん「赤福餅」はご存知ですね。三重県の餅菓子の中でも一番有名だと思っています。これまでも何度もおいしくいただいています。赤い包装紙をほどくと、購入した日付の伊勢(三重県)の名所などの紹介が書かれた「伊勢だより」が入っています。今は、赤福のHPで毎日更新されますのでその日の「伊勢だより」を知ることができるのですが、以前は、購入しない限り、「伊勢だより」で紹介される名所がわかりませんでした。
6月13日の「伊勢だより」は、高田本山にある「安楽庵」の紹介です。

高田本山の御影(みえい)堂も「伊勢だより」で紹介されているそうです。私(住職)は、まだ、日付を知りませんので手元に「伊勢だより」は持っていません。

生前葬

生前葬
生活者と話し合う機会がありました。色んな話題の中で「生前葬」の話題になりました。知り合いが、少し前に「生前葬」をされたようです。
元気なうちに、感謝を伝えたいことと、香典の代わりに、ご自身がこれまで関わってきた団体などに、「生前葬」に来られた方が寄付をしていただく形を考えられていました。

私のお寺でも先々代の時に、「生前葬」をされたお同行の方がいらっしゃいました。
やはり。元気なうちに、感謝をしたいことが希望だったようです。

確かに、亡くなられてからの葬儀で生前の感謝することも大切な儀式ではありますが、ご本人が元気な時にこれまでの友人や知人などにお互いが感謝しあえる時間があれば「生前葬」ではなくても良いと思います。しかし、関係者が一堂に感謝をする場は「生前葬」がふさわしいようにも感じます。

ただ、その方は、ご家族に「生前葬」の話をされたら反対されたそうです。

これまでも、「生前葬」と言う言葉は知っていましたが、お寺でも何か新しい発想として、考えられるような刺激をいただき、とても有意義な時間になりました。

※中川個人の感想です。

見えないもの

見えないもの
見えないものの喩えとして、ラジオやテレビの電波や、病院でのレントゲンの放射線を取り上げることがあります。また、古代から神仏も見えないものとして捉えられていました。私たちの死後についても、霊魂や霊界などの言葉で、見えないものと考える場合もあります。
平素は、見えないものを気にしなくても、何かのきっかけで、恐れたり、有難かったりと心が揺れ動くこともありませんか。
その時の私のものの見方によって生じているのではないのでしょうか。
よくよく考えていくと、私自身の気持ちや考えも、わからないもの(見えないもの)として考えることもできると思います。
「私」とは、一体何者か。時間があれば、丁寧に考えていきたいと思います。
※中川個人の感想です。

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死後について

死後について
人口減少・既存の家族観の限界など、お寺を取り巻く環境も大きく変化しようとしています。新しい技術のAI故人も出現してきたそうです。

死後について考えると、身近な方の死も「二人称の死」から「三人称の死」に遠ざかるようなことも考えられます。一人称の私から離れた「三人称の死」は、寂しいことだけど、どこか人ごとのようなイメージです。そこに、戦争や自然災害での「死」であれば、不条理の死として、少し、感情移入できるかもわからりませんが、「二人称の死」のような感情がたかぶることはないように思うのは、私(住職)だけでしょうか。見えない「死者」の死後についてどのように捉えようとしていくのか問われているようにも感じます。
※中川個人の感想です。

何を見ている

何を見ている
私たちは、同じ景色を見て、「きれいだ」と思っても、「きれい」な対象は違う場合がほとんどです。心に響く(感じる)ものは人それぞれであることを理解しながら時間を共有しています。心に響くものが、自分の人生の支えになるものであるかはわかりませんが、自分の人生を支えるものに出遇うことで、より豊かな人生を歩む糧になることは確かです。

高田派では、17年に一度、栃木県本寺(専修寺)のご本尊の一光三尊佛の御開扉があります。法苑院妙華寺では、前回7回目の出開帳をお受けしました。私(住職)が生まれてからですと昭和43年(12歳)、昭和59年(28歳)、平成11年(43歳)、平成26年(58歳)に遇う機会がありました。12歳の頃のことは覚えていません(お稚児さんの1人として参加したと聞いています)28歳・43歳の時は、父が住職として、迎えました。前回58歳の時、当時の総代・お世話方と共に、住職としてお迎えしました。その時その時で、一光三尊佛をお迎えして、見ているもの(一光三尊佛)は同じでも、感じるものは違います。
次は、令和12年(2030年)どのような出遇いができるのでしょうか。

皆様にとって、一光三尊佛とは、どのような存在でしょうか。

※17年に一度、栃木県の本寺(専修寺)のご本尊(秘仏)が、高田本山で出開帳されます。数え年で17年と申していますので、16年に一度です。また、4月1日から2年間、高田本山に滞在され、その間に各寺院に出開帳されます。

覚えていますか?

覚えていますか
11年前の今(5月24日・25日)、妙華寺では、一光三尊佛御開扉法会を厳修していました。
高田本山では5年後に次の一光三尊佛をお迎えします。
その時、妙華寺でお迎えできるかどうかこれから皆さんと共に考えていきたいと思っています。

【下記の文章は、11年前のものです】

一光三尊仏の由来について

栃木県の本寺に伝わる一光三尊仏は、親鸞聖人が自ら善光寺よりお迎えされ、親しく御恭敬されました尊像であり、真宗高田派のご本尊であります。
この尊像は、中央に阿弥陀如来、脇侍(わきじ)として向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が一つの光背(こうせ)におさめられいますので、一光三尊仏と言われています。
一光三尊仏の伝来については、かつて印度の月蓋(がっかい)長者が釈迦如来に懇請し、閻浮檀金(白金)で造られ、中国・百済(朝鮮)に渡り、欽明天皇の時代に百済の聖明王より、朝廷に献上された我が国で仏教伝来の最古の尊像であります。
当時、仏教に反した物部の守屋大臣が、この尊像を7日7夜「ふいご」でふき、三日三夜鉄板上で打ち砕こうとしたが失敗し、ついに万策つきて難波の堀江に棄てたと言われます。堀江に沈んで18年、推古天皇の8年に信濃国の本田善光という者が縁あってすくい上げて、郷里の信濃国にお伴し、自宅の臼の上に祀っていたが、多くの人々の信仰が厚くなり、やがて、勅命(天皇の命)により、長野に善光寺が建てられ善光寺の本尊となった。
嘉禄元年(1225)関東各地を教化されておられた親鸞聖人が、下野国高田にお寺を建てようとせられた時「速やかに信濃国善光寺に来るべし、我が身を分かち与うべし」と夢のお告げがあり、善光寺に赴き、一光三尊仏の一体分身の尊像を感得せられ、笈(おい)に納めて背負って高田へ帰り、専修寺の本尊としてあがめられました。
高田本山の第10世真慧(しんね)上人の時に、本山は伊勢国一身田に移されたが、下野の高田にそのまま一光三尊仏が安置され、善光寺にならって長く秘仏とされてまいりました。第17世円猷(えんゆう)上人は、伊勢をはじめ各地の御同行にも、尊像を拝ませたいと思し召し、出開帳をお許しになられ、それ以来17年目ごとに勝縁に遇うことができるようになりました。
王室においては、桜町天皇、後桃園天皇、後桜町天皇、光格天皇、仁孝天皇、明治天皇から御親拝あった尊像でもあります。
これらのことから、三国伝来の一光三尊仏、天拝一光三尊仏ともいわれます。
親鸞聖人の御和讃に
「弥陀 観音 大勢至  大願の船に乗じてぞ
生死の海にうかびつつ 衆生をよぼうてのせたまう」
とあります。私たちの救われて行く姿を如実に現して頂いている尊像に深く感激された一首でしょう。
当妙華寺としては、大正7年12月12日より5日間御開扉申し上げましたのが始まりで、平成26年5月24日・25日の御開扉は実に7回目のご勝縁でありました。
次回の高田本山での一光三尊仏御開扉は、13年後の西暦2030年です。

 

親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)

親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)
親鸞聖人の出自について覚如上人の『親鸞伝絵』に記されていますが、中世の史料には、聖人がいつどこで生まれたか具体的な記述がありません。
宗祖(しゅうそ)親鸞聖人は、承安3年(1173)に誕生されたことは、聖人のお手紙・書物に年齢が記されていますので判明しています。誕生の月日は、1月1日・2月上旬・4月1日、10月の諸説があります。これらは江戸時代に編集された聖人の伝記によるものです。その中で高田派の良空(りょうくう)の『高田開山親鸞聖人正統伝』に記された4月1日(太陽暦5月21日)説が有力になり、定着していき、場所については山城の日野の里に伝承があり今に至ります。また聖人の誕生日の行事として法会が勤まるのは明治に入ってからです。降誕会とは普通お釈迦様の誕生をお祝いする行事ですが、真宗では「親鸞聖人は阿弥陀如来の応現(おうげん)」と頂くところから聖人の誕生を降誕会と言いお祝いの行事をしています。

また、お同行の皆様の喜びの1つに親鸞聖人90歳のお年を「祖師寿(そしじゅ)」と言い90歳になられたお同行の皆様の仏縁を共にお喜び申し上げています。
男性は降誕会の5月21日に、女性は6月の最初の日曜日に開催されます高田派婦人連合大会の式典で表彰されます。このことを励みにされていらつしゃる方もたくさんいらっしゃるそうです。

抹茶ブーム

抹茶ブーム
5月は、新茶の季節でもあります。抹茶は、新茶を寝かせ(熟成させ)て、11月の開炉の時に味わいます。お寺では、お寺の行事や、身近な方との場で、薄茶でおもなす文化が続いています。
日常生活の中で、以前に比べ、抹茶を使ったお菓子が多くなりました。また、外国での需要もあり、国内での生産量は、それほど増えていませんので、これまで、抹茶(薄茶)を愛飲していた、茶道愛好家に届くことが、厳しくなっています。
いつも、抹茶を購入しているお店でも、以前は、製造元に発注すれば直ぐ送ってもらえる抹茶が今は、発注量がすぐ届くことはないそうで、お店に抹茶の在庫がある時と無い時があるそうです。
抹茶が世界的に認められ、需要が増えることは喜ばしいですが、手に入りにくくなるのは少し残念です。

なにか、生産システムの違いはありますが、今のお米騒動にも似ているような感じもします。※中川個人の感想です。