共通認識
お茶の稽古は、「お茶(濃茶)をおいしくいただく」ことを分割して習うことです。
お茶をいただく時にお菓子が出されますが、お茶が出てくるまでにお菓子をいただきます。それまで、お茶とお菓子は一緒にいただくものと思っていました。日常生活では、お菓子を食べながら、お茶を飲むことは当たり前でした。自分流でおいしくいただくことで良かったのですが、お菓子はお菓子としておいしくいただく。そして、お茶はお茶をおいしくいただくことを突き詰めると、作法にならったいただき方になるように感じています。食事も、懐石・会席は、一品毎に目の前にだされて、それを食し、次の一品に進んでいきます。もちろん、定食などは一度に注文した料理が出てきますし、バイキングなど自分の好きな物を好きなだけ取っていただく場合も自分らしいなと思うこともあります。
少し、話題がそれますが、「仏様の前を通るとき、横切るとき、頭を下げる」
「畳を歩く時、畳の縁は踏まない」「座布団の正面」などの作法はご存知ですか。
知らなくても、日常生活で支障はありません。支障はありませんが、これまでの社会では当たり前のように受け入れていたルール(しきたり)で、その時代では、1つの共通認識だったのだと思っています。
今の時代に共通認識できるルール(しきたり)はあるのでしょうか。
中日新聞の人生欄で、能の「羽衣」の記事を拝読しました。日本文化に造詣が深い方はご存知だと思いますが、私(住職)は、高校生の頃、歴史か古文の科目で能で演じる「羽衣」の演目は学んだと思いますが、内容はついては、学んだかどうか、まったく覚えていません。一昔前なら、日本人の教養として能や歌舞伎の演目や俳句や和歌などが共通認識のもと、絵画や日常生活品などに趣向が取り入れられ、会話が弾んだと思うのですが、今はどうでしょうか。
日本に仏教が受容されてから、生活の中で、仏教語も数多く使われていましたので、仏教も共通認識されていた1つと思いますが、今は仏教も教養(常識)としての共通認識は難しい時代になってきているのではと感じています。
※中川個人の感想です。