年忌(回)法会のお勤め

年忌(回)法会のお勤め
お同行様の年忌(回)法会のお勤めは、お経・文類偈・和讃(自宅では五首、お寺では一首)・念仏廻向文・御書(自宅では改悔文)拝読です。
「どうして文類偈なのですか」とお尋ねがございました。
高田派では、お勤めの時に「文類偈」に親しんでいます。高田本山でのお勤めの節が正式と思いますが、地域によって違いがあるのも事実です。私(住職)は、先々代、先代のお勤めの節回しを聞きながら、自分では同じと思っていますが、音程は違うようです。
妙華寺では、年忌(回)法会は、夕事(ゆうじ)のお勤めをさせていただいていますので「文類偈」をお勤めいたしますが、本堂や内仏での朝事(あさじ)のお勤めは、「正信偈」をお勤めしています。親鸞聖人が、先に「正信偈」(『顕浄土真実教行証文類』)を書かれ、「文類偈」(『浄土文類聚鈔』)は後に書かれたからと聞いています。(『顕浄土真実教行証文類』と『浄土文類聚鈔』は、どちらもはっきりした制作年代はわかっていません)
前々住職の時代には、今の時代では考えられないことですが、年忌(回)法会を夕方にお同行様の自宅でお勤めをして、翌日の朝に本堂でお勤め、続いてお墓勤めをすることもあったようです。

本山のお七夜も、逮夜(たいや)から始まり、初夜(しょや)、晨朝(じんちょう)、日中(にっちゅう)が1つのサイクルになっています。

※最近は、生活様式が変化して、家族そろってお仏壇でお勤めをする機会が少なくなり、お仏壇のお給仕(きゅうじ)やお勤めの仕方も次の世代に引き継ぐことも難しい時代なのかもわかりません。そのような時は、些細なことでもお尋ねいただきましたらお話させていただきます。また、正月を除く毎月第1日曜日の朝7時30分から8時頃まで行っています日曜学校で平素のお仏壇のお給仕や、お勤めについて、おさらいしませんか。

【お勤めの作法】
勤行本を取り出し、頂き開きます。錀(りん)を中・小・大と三回打ちます。句頭(くとう)を拝読するとき家族そろってもう一度頂きます。
朝事(あさじ)は、「重誓偈」・「正信偈」「和讃五首」・「念仏廻向文」を勤めます。和讃が終わりに近づき最後の二音で錀(りん)を二つ打ち、三打目は、念仏の句頭の最後「なまんだぶ」の「ぶ」で打ちます。廻向文は、「安楽国」の「ら」で一打。「こ」で一打、終わって一打します。お念仏しながら合掌礼拝してお勤めを終えます。
夕事(ゆうじ)は、「重誓偈」・「文類偈」「和讃五首」・「念仏廻向文」を勤めます。

『真宗高田派の平素のお給仕』より

 

10月20日、国の文化審議会は、日本の代表的な近世寺院建築とされる高田本山専修寺の御影堂(みえいどう)と如来堂(にょらいどう)を国宝にするよう答申されました。三重県内の建造物で国宝に指定されるのは初めてのことだと新聞に掲載されました。
専修寺を本山としています私たち真宗高田派に属する僧侶並びにお同行各位、三重県民、津市市民において、とてもうれしい知らせでした。これまで高田本山専修寺は、身近で親しくお詣りしていましたが、御影堂が重要文化財の建造物で国内で五指に入る大きさということは平成の大修理の時に初めて知ったことでした。
また、親鸞聖人直筆の『三帖和讃』『西方指南抄』など3点は、昭和28年に国宝に指定されて大切に保管されています。3点の国宝本は、現在、栃木県宇都宮県立博物館の『中世宇都宮氏』展(10月29日まで開催)にて展覧されています。
これから益々多くの方々が専修寺の国宝に指定される御影堂や如来堂にお詣りされると思いますがお詣りするだけでなく、親鸞聖人のみ教えにもっと触れていただきたいと思います。

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

『正像末法和讃』第53首

弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜむ(ん)人はみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏を(と)となふべし

顕智書写本では「南無阿弥陀仏ととなふべし」とあり、文明本には「をとなふべし」と変わりますのは、聖人の御苦心の存するところとうかがいます。しかもこの「ねてもさめてもへだてなく」は、私どもの生き方が強く問われます。「ねても」というのは、寝るときということだろうか、「さめても」というのは醒めたならばすぐにお念仏称えるということだろうか。そうでなしに寝ているときも称えるということだろうか。これがやれなければ、聖人を慕うような顔をしておってもはじまらない。その方がどれほど尊い方であっても、私がその道を歩むことができなければ、褒めているそのことがおかしい、自分と関係のない人を立派な人といっておっても、これははかないことになります。そういう苦しみをもって思念を続けていますと、「唯除睡時常臆念」こういう言葉をみつけたのです。これは善導の『往生礼讃』の言葉です。善導がわが身に輝いた新しい生命、仏のおんいのちを讃えまつるという『往生礼賛』、そのなかに、「眠っておるときは別にして、常に臆念する」とあります。もとの『観経』「第三観」の「唯除睡時恒臆此事」をよくおよみになったということです。これで解決ができたというのではないのですが、ある一角から光がさし込んだというところです。
もう一つ、『西方指南抄』(中本)にでるところの「もし声はなるるとき、念すなはち懈怠するが故に、常恒に称唱すれば、すなはち念相続す」と。「声はなるるとき」というのは、南無阿弥陀仏の声が途絶えると「念すなはち懈怠す」。この「念」というのは如来に思われて私が如来を思う、如来と私の思い合いです。これが「臆念」です。「懈怠」というのは「なまける」、「途切れる」ということです。だから「常恒に称唱すれば、すなはち念相続す」と。念仏の声が途絶えると、阿弥陀と私とのつながりが途切れてしまう。これが法然上人です。南無阿弥陀仏という声をはなれたら、私らは阿弥陀と直結しなくなる。ここまで念仏中心です。「懈怠」ということを嫌われたわけです。ところが親鸞聖人は、「われらは善人にもあらず、賢人にもあらず、精進なる心もなし、懈怠の心のみにして」といわれる。「精進の心もなし」。しかも与えられた南無阿弥陀仏によって、精進のできぬ身に、精進の心と力を感得するのであります。

以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

住職の投稿

住職の投稿
今回、私(住職)が投稿した一文を掲載させていただきます。投稿先は、『教学院報』と言う高田本山の研究機関の会報です。もう20年前のもので、寺報に掲載した文書より照れくさいものですがおつきあい下さい。(注は今回記載)
『教学院報』1997年5月発行 第5号

「私の出合った一冊」
「対治」と「同治」の世界観
昨年の伝灯奉告法会(注 平成8年で今の前ご法主殿の伝灯奉告法会)の時、五木寛之氏に本山で「慈のこころ悲のこころ」という特別講演をしていただきました。氏は、私が中学生時代(今から20数年前 注・1997年の時)以前からの著名作家で、当時毎日新聞の日曜版に随筆が毎週掲載(後『ゴキブリの歌』として出版)されて気に入って読んでいました。氏の講演を聞き、私の中の若さのもどかしさ、心の揺れを落ち着かせるために、氏の多くの本を読んでいたことをなつかしく思い、講演の中で「ともに悲しむ」ということを「慰め」と言われたと思いますが、その時、頭をよぎったのが『「対治」と「同治」の世界観』です。『「対治」と「同治」の世界観』は、平成元年(1988)4月に日刊ゲンダイ掲載の随筆です。実際私が読んだのは、『流されてゆく日々(抄)』で平成7年(1995)です。『生きるヒント3』にも『「対治」と「同治」について』と掲載されています。
医師の駒澤勝氏が、医学という科学の根本の姿勢に、仏教という立場から光を当てて、疑問を提出されている「医学と私と親鸞」という文章を五木氏が読んだ時の随筆です。
 今の医学が、健康が幸福で病気が不幸、生が善で死が悪として、どちらからを否定するところから出発する思想を「対治」として示し、そこには救われない何かがあり、あらためてすべてを肯定する思想を「同治」として駒澤勝氏の考え方が変わってゆかれたことを、五木氏自身も考え方が変わってきた中で描かれた随筆です。
医学と仏教に関心が寄せられる今、他人事でなく自分の問題として、私も若い時には気付かない事が、時間がたたないと気付かない事があるという自分の変化の中で読みました。同時に駒澤勝氏の「医学と私と親鸞」(昭和58年『日本医事新報』に収載)という論文を是非読みたいと思っています。尚、この随筆は、「午後の自画像」(角川書店1992)にも、『「医と私と親鸞」駒澤勝』として掲載されました。

※まったく内容が薄く読みにくい文章で赤面しています。私の好きな作家の五木寛之氏の考え方を変えた、駒澤勝先生の「医学と私と親鸞」を読みたい。と言うことを言いたかったのと、親鸞聖人のみ教えが医師(科学者)にも伝わっている素晴らしさを確認したかったのだと思います。この文章を読んでいただいきました愛知県の東仙寺の稲垣舜岳先生から、駒澤勝氏の「医学と私と親鸞」をお送りいただきましたこと大変驚き感謝いたしました。何も分かっていない若い私に勉強しなさいと言うメッセージをいただいたと思いました。稲垣先生のご著書もその後、拝読させていただきました。その後駒澤勝先生は、高田本山の仏教文化講座にも出講されました。また先生のご著書も拝読させていただいています。寺報30号(平成23年12月発行)の読書雑感で、『目覚めれば弥陀の懐』法蔵館を紹介させていただきました。

式章(しきしょう)

式章(しきしょう)

先日、お仏壇廻りを整理されていたお同行様から「これ(式章)はどのように使うものですか」とお尋ねがありました。
式章は、僧侶の着用している輪袈裟(わげさ)の形で輪袈裟の下半分が紐になっています。本山や菩提寺から記念の品として式章をお渡しさせていただくことがございます。
本来、お同行の皆様が法会参詣する時に着用するもので礼服の一つとお聞かせいただきます。お寺での特別な行事(御遠忌法会や一光三尊仏御開扉法会)や本山や他のお寺に団体参詣など行く場合、式章を着用されているお姿を拝見しますが、最近は式章を着用して、葬儀、年忌法会をお勤めするお姿も少なくなりました。もしご家庭に式章がございましたら着用される機会をつくられたらいかがでしょうか?

宇都宮

 

宇都宮
栃木県と言えば、真宗高田派の私(住職)は、真岡市(以前は、二宮町高田)にある本寺(ほんじ)を一番最初に思い浮かべます。そして日光東照宮もお参りにいったこともあります。しかし、これまで栃木県の他の町を訪れる機会がありませんでした。

今回は、宇都宮市で開催されています栃木県博物館の開館35周年特別展の「中世 宇都宮氏」を拝見するのに初めて伺うことになりました。宇都宮氏は、今は地名にもなる宇都宮市周辺で活躍された名門武士団のことで今回の展覧会です。この展覧会については、高田本山で知り、内容を聞きますと、高田本山専修寺の国宝の『西方指南抄』・『三帖和讃』を始め、親鸞聖人真筆の八字名号・十字名号、本寺の真仏・顕智上人像、専修寺に残る宇都宮家の書状など法宝物が出展されるということを聞き、一度尋ねてみたいと思いました。
初めて行く場所(宇都宮市)ですが、調べて見ますと今年の5月の婦人会総会の時にご講演いただきました井上広法師の光琳(こうりん)寺様がありました。突然ではありましたが連絡をしましたら、ご多用の中でしたがご一緒していただけれることになりました。また、一昨年の5月の婦人会総会の時に「死の体験旅行」を開催させていただき、再来年(2019)の5月の婦人会総会の時にご講演を依頼しています神奈川県の「なごみ庵」の浦上哲也師もご同行いただけるとのことでうれしい再会のご縁をいただきました。

展覧会では、宇都宮氏(一族)のスケールの大きさに驚きました。武士でありながら法体姿の絵像や法然上人絵伝の中にも描かれている姿、遠くは奈良の東大寺や京都の泉涌寺、伊勢神宮への寄進など神仏への信仰も篤く、和歌への造形の深さなど知り、数多くの国宝など貴重な文化財をたくさん拝見することができました。栃木県にある本寺も宇都宮氏の領地にありますので関係が深かったことが窺えました。また、複製でしたが鉄塔婆(供養塔)の大きさにも驚きと同時に真仏上人の報恩塔を思い出しました。


続いて、井上広法師の光琳寺様にお参りに行きました。光琳寺様は、展覧会に展示されていました江戸期の古地図に宇都宮氏の居城の西側に、描かれており歴史を感じました。
東日本大震災の時、光琳寺様では、墓石の倒壊や鐘楼堂の屋根瓦の被害があったそうです。テレビや新聞だけの報道で知るだけでは分からない被害規模の1つを改めて教えていただきました。
ご本堂は耐震工事をされていたことで被害はなかったことが何よりと感じました。御本尊の阿弥陀様を取り囲む内陣の壁面に平等院の化仏が数多く荘厳されている光景は、これまで見たことがない内陣でした。余間には由緒ある閻魔様の像が安置されて、地獄絵と共に年一度お目にかかれる(ご開帳される)そうです。お堂内の荘厳もそうですが、境内にある鐘楼や墓地の整備にお同行の皆様が力を合わせて取り組んでこられたことをお聞きして、光琳寺様のこれまでの寺院活動に敬服することです。これから広法師の代になっても新たに地域との共存を含め素晴らしい寺院活動を継続されると思いました。

ハードな一日でしたが井上様、浦上様のおかげで実りある一日でありました。

※宇都宮と聞くと餃子も有名です。現地で食べる初めての宇都宮餃子やっぱり美味しかったです。餃子だけのお店で平日に関わらず多くの方が並んで待っています。駐車場の車も他県ナンバーが多かったです。

9月のおてらおやつクラブ

9月のおてらおやつクラブ

秋彼岸会の後、一人親家族、支援団体様へおすそ分けさせていただくことができました。季節も秋になり、少しずつですが過ごしやすい気候のようです。支援団体様ともお寺と一緒に何かできないかお話をしているところです。
お寺からの限られた支援ですが続けられるようにしたいと考えています。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています>
今回は1月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

 

お寺のホームページを開設して2年が経ちました。

お寺のホームページを開設して2年が経ちました。
私(住職)には、ホームページを作成できる知識も技術もありませんでしたが、お寺を応援してくださる(一社)お寺の未来様のお力をお借りして、平成27年(2015)の9月にお寺のホームページを開設して2年を迎えました。お寺のホームページが開設できましたことは、お堂の掲示板や行事案内・寺報などでお知らせをしていますが、まだまだご承知いただいていないようです。ご年配の皆様にはホームページと言われても何のことやら分からない部類の1つかと思われます。もしご年配の皆様のご家庭に若い世代の方々でパソコンやスマートフォンをお持ちの方がいらっしゃいましたら、インターネットで http://www.myoke-ji.com と入力をしていただきますと、法苑院 妙華寺のホームページが閲覧できます。(法苑院妙華寺や妙華寺で検索していただいても法苑院妙華寺のホームページが検索できると思います)またお寺のHPの中の、「お寺からのお知らせ」の記事は、お寺の行事の案内や住職が日頃感じたことまたお同行の方の投稿もございますので、時間がございましたら一度ご覧ください。

ホームページを開設して何が変わったか? 1年目の時も記しましたが、私(住職)の毎日の生活への見方が変わりました。私(住職)の生活の中での仏教や親鸞聖人の教えやお寺がどのように関わっているのかを改めて感じています。そこには私(住職)個人のこれまでから現在、将来のことや、お寺のこれからについて、その時に感じたことを記していますので時間とともに変化していることもあると思います。
また、考えたり感じたりすることを文章にすることの厳しさと共に大切さも感じています。そのことから、親鸞聖人が晩年までご著書に筆を入れられ、お手紙を書かれていたお姿に思いを馳せますととても感動いたします。

現在の私達の葬儀や法要のあり方、お墓についての意識は、これまでよりとても早く変化しています。また、葬儀や法要のあり方、お墓についての考え方もいろんな視点から論じられていますので考えを一つに整理することも難しいです。
一人一人のあなたにとってのお寺とは「何か」葬儀とは「何か」お墓とは「何か」を、お同行様のお一人お一人からご意見をお聞かせいただき一緒に考えることで、これからの妙華寺のあり方を共に作り上げていくことができればと感じています。

お寺の行事を行うことは別段これまでと違うわけではありませんが、そこに至る過程を丁寧に見ることになりました。私(住職)が法務を初めて40年ほどになりますが、変わってきた部分について改めてその背景に気づいたりします。お同行の皆様におかれましても生活の変化を感じられていると思います。変わるべきものと変わらないもの、必要とするものと必要でないと思えるもの、お同行様の視点ではお寺や親鸞聖人のみ教えをどのように感じられているのでしょうか?

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

仏力无窮にましまさば 罪障深重も重からず
仏智无邉にましませば 散乱放逸も捨てられず

弥陀の本願力は、極まりないものであられるから、どんなに罪とがが深かろうとも、それを重しとしない。弥陀の智慧は際限があられないから、我々の心がどんなにしまりがなく、自分勝手であろうとも、それをお見捨てにはならない。

散乱放逸は、欲望に常に乱され、ほしいままに振舞う者。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

勤行本として依用しています文明本の正像末法和讃第36首目は、
願力无窮にましまさば 罪障深重も重からず
仏智无邉にましませば 散乱放逸も捨てられず
聖覚法印の『唯信鈔』のお言葉によって詠われます。『唯信鈔』というのは、『歎異抄』にも唯一の引用書としてその名が見えます。「弥陀いかばかりかの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と。『唯信鈔』は「仏」「罪悪」それが『歎異抄』では「弥陀」「罪業」にかわっておりますけれども、『唯信鈔』が聖人のお弟子たちに読まれていた証拠です。いまのご和讃のところ、『唯信鈔』の言葉を掲げます。
仏力無窮なり、罪障深重の身重しとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のものも捨てることなし。ただ信心を要とす、そのほかをば顧みざるなり。
これはよく調えられた文章で、和讃せずにはおれない響き合いを感じられたのでしょう。聖覚は法然上人そのままです。それだから上人亡きあと法然上人につかえるようなお気持ちで慕い敬っていかれたわけでしょう。「如来の本願の力は窮まりなくましますので、私の罪業がいかに深く重くとも、それがさまたげにならず、仏のお智慧はほとりなくましますから、私どものような、心散り乱れているもの、散乱放逸のものも見捨てるということがないのです」と。(以下省略)
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

 

寺報のこれまで

寺報のこれまで
昨年(平成28年12月発行)の妙華寺の「寺報」が35号であります。これまでの「寺報」を捜していました。「寺報」1号が見つからず2号から綴りましたが、「寺報」2号は昭和51年7月1日発行とあります。前々住職の時代です。B5用紙一枚で裏表を使用しています。内容を見てみますとこれからの行事の予定とこの年の前半の行事の報告です。春の彼岸会・春の千部会は3日間お勤めをされています。ご聴聞されるお同行の皆様が少なく布教使様に申し訳ないとの前々住職の気持ちも綴られていますが、お正月の修正会には50名ほどお越しいただいたことや、花祭りに赤ちゃんの生誕祝賀会を開催して15名の赤ちゃんが参加されたことや、今は行事がありませんが婦人会報恩講には70名の参加があり会員300名ほどにお供えを渡したことなどが報告されていることを見ると、今の行事にお越し頂いているお同行様がとても大切な存在でありますことや、これからのお寺の行事に、それぞれの皆様が友達をお一人お連れいただくようお願いしたいと思いました。これらのことから「寺報」1号は昭和51年の早い時期に発行されたように思います。「寺報」3号は昭和52年2月25日発行です。「寺報」4号が見つからず、「寺報」5号は昭和58年1月1日発行です。前住職の時代で、その年の行事予定が書かれています。3月28日29日に一光三尊仏御開扉をお迎えすることも記載されています。彼岸会・千部会・報恩講は2日間の行事になっています。「寺報」6号は、昭和61年1月1日の発行で前号から3年後になります。「寺報」7号は昭和62年12月発行となりB5用紙4ページの形になり内容は現行のものと同様でこの号から今の形が続いています。住職の巻頭言、行事の予定・お知らせ、お礼や報告、お世話方様や婦人会幹部の皆様の名簿となります。「寺報」8号は平成元年12月発行ですので前の号から2年後に発行しています。「寺報」9号から毎年発行され今にいたります。平成12年の行事から彼岸会・千部会・報恩講が1日になり今の行事の形になりました。平成19年12月発行の「寺報」26号より私(住職)が編集することになりB5サイズからA4サイズに紙面を大きくなり、白黒ですが写真も掲載しました。
この記事もお寺のHPでの紹介ですが、昨年HP開設1年の記念としてお同行の皆様に改めてお寺のHPをお知らせをいたしました。その後ご年配の方からパソコンなどの機器もない生活ですので(HPの)お知らせは無用ですと複数の方からお申し出がありました。申し訳ないお知らせをしたと反省しています。どなたも見ることができる「寺報」もお寺の行事や情報を伝える大切なものですのでこれからもっと良いものにしたいと考えています。ご提案やご意見がございましたら住職まで是非ご連絡ください。

9月は、秋のお彼岸の準備から始まります。私(住職)が小さかった頃は「暑さ寒さも彼岸まで」と言葉とおりの季節感でしたが最近は秋の彼岸法会で扇風機が必要なこともあります。今年は本堂に空調設備を導入しましたので7月8月のお勤め時、暑さも少ししのげた感じです。

光澤寺前住職37回忌のお勤め

昨日、妙華寺の相導師の光澤寺様の前住職様の37回忌のお勤めをさせていただきました。西余間に敬置されました前住職様の御影像がとても特徴を捉えられたお姿で、妙華寺の前々住職の葬儀の時にお勤めいただきました頃のことを思い出しました。
光澤寺様は津市の西古河にあり、戦争の時に空襲で本堂が焼失され、必至でご本尊を護られ、その後大変なご苦労の中、本堂を再建をされたことを改めてお聞かせいただきました。高田派の中興上人であります真慧上人の六字名号や九字名号など貴重な宝物も戦争中疎開をして今も光澤寺様に大切に伝えられています。
仏間には、上部分が第21世堯煕上人(墨山)の筆で下のサンスクリットの部分は第22世堯猷上人(雪山)の得度前(多分ヨーロッパご遊学から戻られて)の筆の額が掲げられていました。余り見ることのできない書を拝見することができ帰路につきました。