ひとくち法話

ひとくち法話―聖徳太子―

聖徳太子と親鸞聖人
真宗のお寺には、本堂右余間に「七高僧(しちこうそう)」と「聖徳太子(しょうとくたいし)」の画像が並んで安置されています。

これは親鸞聖人(しんらんしょうにん)が聖徳太子を日本のお釈迦(しゃか)さまと仰がれ、太子の仏徳(ぶっとく)を讃歎(さんだん)されたからです。
『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』には
大慈救世聖徳皇(だいじくぜしょうとくおう)
父のごとくにおはします
大悲救世観世音(だいひくぜかんぜおん)
母のごとくにおはします
と、あります。聖人は幼少の頃、父と別れ、母と別れられました。

けれども聖徳太子さまを父のように、観音菩薩さまを母のようにお慕いして、父母にあっていますと尊ばれたのでした。
御 生 涯
太子は574年、用明天皇(ようめいてんのう)の御子(みこ)として生まれました。その名を厩戸皇子(うまやどのおうじ)、あるいは豊聡耳命(とよとみみのみとこ)といわれました。祖父は欽明天皇(きんめいてんのう)であり、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の子の堅塩媛(きたしひめ)でした。
稲目は欽明天皇以上に熱烈な仏教の崇拝者でありました。そのようなご縁で太子は幼い頃から父や母によって仏教崇拝の心を深く植え付けられました。父の用明天皇が即位されて、まもなく亡くなられると、崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏(もののべし)との間に戦争が起こったのです。
この時、太子はまだ14歳でしたが、四天王の木像を作り、戦勝を誓われました。戦争は蘇我側の勝利に終わり、崇峻天皇(すしゅんてんのう)が皇位につかれたのでした。

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―お釈迦様のご生涯―
14釈尊御入滅(しゃくそんごにゅうめつ)
雨季がすんで、バイシャリーの街で托鉢(たくはつ)から帰り食事をすませるとお釈迦(しゃか)さまは、バイシャリーに住むすべての修行僧を集め、「自分 は余命いくばくもないが、残された僧たちはおこたることなく修行をしなさい」と諭されました。そしていよいよこの街を去られる時に、はるかにバイシャリーの街を見て、「これがバイシャリーの見納めになるだろう。さあ、阿難(あなん)よ、旅に出よう」といって出発されました。
かねてからお釈迦さまを尊敬していた鍛冶屋チュンダの供養を受けられたお釈迦さまは、多くの美味しい食事の中のきのこ料理が禍して、激しい下痢と腹痛を伴う重い病になりました。お釈迦さまはこの痛みをこらえつつ、阿難とともにクシナガラに入られましたが、ついに「阿難よ、私は疲れた。休みたい」と言われ、サーラ樹の間に身を横たえ、頭を北に、顔を西に、右脇腹を下にして足を重ねられました。その時、サーラ樹は時ならず色が変わったといわれます。お釈迦さまの臨終が迫った時、悲しみの極みにあった弟子たちに「もろもろの事象は移ろい無常である。放逸に堕することなく、修行せよ」と諭され、悲痛な思いで号泣する阿難に対し、これまでの奉仕を謝しそのまま静かに80年の生涯を終えられました。時に2月15日の満月の日でした。
完全な煩悩の滅したさとりのことを涅槃といい、お釈迦さまの入滅を涅槃会(ねはんえ)として、3月15日には高田本山では大きな涅槃図を掲げてお勤めをいたします。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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―お釈迦様のご生涯―
13自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)
お釈迦(しゃか)さまは悟(さと)られてから40数年、ガンジス河の流域で教えを説いてまわられましたが、最後は故郷のカピラ城を目指しての教化の旅でありました。
今その疲れ切った老躯(ろうく)をおし、なおインドの大地を歩むお釈迦さまの姿に、私たちは言いようのない畏敬(いけい)と真実への燃えるような熱情に驚嘆し、かえってそこにまた親愛の情さえおぼえます。お釈迦さまはガンジス河を北にわたり、そしてバイシャリーという街へはいられました。そして、阿難をはじめとする弟子たちに、説法をして過ごされましたが、お釈迦さまはここで激痛をともなった重い病気にかかられました。その苦痛を堪え忍ぶ中で、最後の教えを請う阿難に「私は誰彼の差別なく教えを説いてきた。私は年月を重ねて老衰し、このお身はあたかも古ぼけた車が皮紐の助けによってようやく動いているよう なものだ。阿難よ、それゆえ私の死後も他を頼りとせず、誰もが、ただ自己と法とのみをよりどころとせねばならない」と説かれました。これが「自らを灯明とせよ。法を灯明とせよ」と言う有名な教えです。親鸞聖人もこの教えを心とされ、「自灯明」のこころを「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)によって、仏のいのちを我が命とする輝かしいいのちを果たす人間となれ」、また「法灯明」のこころを「仏の教える真実の道を、己の計(はか)らいを捨てて教えのままに生きよ」と教えられました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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―お釈迦様のご生涯―
12お浄土への導き『阿弥陀経』(おじょうどへのみちびき『あみだきょう』)
お釈迦(しゃか)さまのご一生はガンジス河流域を巡って各地で教えを説かれました。インドには3ヶ月も雨季がありますから、そんなときには祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などで説法をされ『阿弥陀経』もそこで説かれました。
『阿弥陀経』は私たちには大変親しいお経です。これはお釈迦さまが74歳のときに、舎利弗はじめ1250人の弟子や、生きる苦しみ、悩み、死んでいく不安にさいなまれている人々に、たとえ死んでいっても、お先真っ暗ではないよ、こんなすばらしい世界があるんだよと、大きく三つのことを説かれました。
第一は、お浄土には池に車輪のような蓮の花が一杯命を輝かせ、すばらしい音楽がどこからともなく聞こえ、こよない鳥の鳴き声が聞こえてくる。それはみな如来(にょらい)が今も説法していてくださることなんだよ。第二は、そのお浄土に生まれるには、ただ仏さまが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と言葉になって呼びかけてくださる、それに応えて私が「南無阿弥陀仏」と申す時、その声は私からでたのではなく、仏さまの声の山彦と考えてお念仏しなさい。そうしたら、お浄土に生まれることができる。第三は、以上のことは私の独断ではなく、東、南、西、北、下、上方のあらゆる世界の諸仏がたも、私の説いたことをほめたたえてくださっています。
これらを聞いていた人々は、心に一杯の歓びをいただき、お釈迦さまにお礼をして去っていきました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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―お釈迦様のご生涯―
11一所不住のご生涯(いっしょふじゅうのごしょうがい)
お釈迦(しゃか)さまの究極の目的は、真実の智慧(ちえ)を得ること【正覚(しょうがく)】、心の悩みの炎を消すこと【涅槃(ねはん)】、迷いの世界から抜け出すこと【解脱(げだつ)】、でした。そしてその生活は、み仏の心をいただき、それを人々に説き広めるためのものでした。
毎日の生活も、その目的にそって、朝早く起きて瞑想(めいそう)し、托鉢(たくはつ)し、求めに応じて法を説くことでした。質素な衣と托鉢用の鉄鉢(てつはち)だけで、履き物を用いず、乗り物にも乗らず、雨季の3ヶ月は祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などに滞在された以外は、町から町へ、村から村へと旅をして、み教えを説き廻られたのです。1カ所にとどまらず、足の赴くままに旅をする、いわゆる一所不住のご生活だったのでした。
しかし、さとりを開かれてからの45年間は、ことに因縁の深かった場所で説法されることが多かったようです。たとえば『阿弥陀経(あみだきょう)』はお釈迦さまが最も好まれた祇園精舎で説かれたと、お経の最初に述べられていますし、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』や『法華経(ほっけきょう)』などは王舎城(おうしゃじょう)、耆闍崛山(ぎしゃくせん)〔霊鷲山(りょうじゅせん)〕で説かれたと、やはりお経のはじめに出ています。
その耆闍崛山は、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』が説かれた王舎城の牢獄(ろうごく)から歩いて3、40分のところにある岩山でした。
こうしてお釈迦さまのご生涯をたずねてみますとき、親鸞聖人(しんらんしょうにん)もまた、京都から越後へ、越後から関東へ、そして帰洛(きらく)へと一所不住のご一生であったように思います。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
10王舎城の悲劇(おうしゃじょうのひげき)
王舎城はインドの東部にあるお城です。2、300メートルの高さの岩山で、その城壁は今でも残っています。この王舎城で大変な悲劇がおこったのです。
王舎城等を中心にお釈迦(しゃか)さまの弟子は数え切れないほど増えてきました。その中に提婆達多(だいばだった)という人がいました。お釈迦さまの従弟にあたり、頭の鋭い反面、嫉妬心が強く、教団を乗っ取ろうと企み、お釈迦さまを亡き者にしようと恐ろしい計画を立てました。山から岩を落としたり、象に酒を飲ませて踏み殺そうとしましたが、いずれも失敗しました。
そこで、王舎城の頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と韋提希夫人(いだいけぶにん)に阿闍世(あじゃせ)という王子がいるのに目をつけた提婆達多は、その出生にまつわる指の傷が、父王があなたを殺そうとした証であるとそそのかしたのでした。
怒った阿闍世は直ちに父王を牢に入れ死を待つことにしました。しかし、一向に亡くなる気配のないことを不審に思って牢番に尋ねると、夫人が隠し持った食物をしばしば運んだことが分かり、母といえども我が敵であると剣を抜いて殺害しようとしましたが、大臣や侍医にいさめられ、やむなく母も王宮の奥深く幽閉したのでした。
韋提希夫人は阿闍世を産んだ宿業(しゅくごう)の深さを嘆き、身悶えながらお釈迦さまに救いを求めました。そこでお釈迦さまは夫人や未来悪世の衆生のために、極楽世界に生まれるための様々な方法があること、しかし最も大切なことはお念仏を喜ぶ身になることだと教えられました。この教えが『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』であります。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
09精舎の建立(しょうじゃのこんりゅう)
最初の説法地鹿野苑(ろくやおん)を発たれたお釈迦(しゃか)さまは、各地で説法をつづけられ、多くの人々がみ教えに帰依(きえ)してお弟子となりました。そうしてあの成道(じょうどう)(さとり)の地ウルベーラを目指され、やがて千人の弟子たちを率いて王舎城(おうしゃじょう)に入られました。ここは頻婆娑羅(びんばしゃら)王の領地で6年ぶりの再会に王はもとより王妃韋提希(いだいけ)も大変喜ばれました。それは成道の暁には必ずお会いしますとの約束をはたされたからです。
感激された王は、城の近くの竹林の地を選び、釈尊やお弟子たちのためにお寺(精舎)を寄進されました。これが有名な竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)です。
以後ここを拠点としてみ教えは益々広がってゆきました。
そして、舎利弗(しゃりほつ)や親友の目犍連(もっけんれん)をはじめ多くの弟子たちもお釈迦さまのもとに入門しました。
更に忘れてはならないのが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)です。お釈迦さまの故郷カピラ城に近いコーサラ国の首都舎衛城(しゃえじょう)に給孤独(きっこどく)という長者がいましたが、彼は熱心な信者で釈尊にお寺を献上したいと考えました。そうして舎衛城近くの森が最適と思い、地主のジェータ王子に交渉しましたところ、黄金を敷き詰めたら売ってやろうとの難題をもちかけました。しかし、長者は早速に牛車で黄金を運び敷き詰めたのです。地主もその行為が尊いも のと気付き自分も協力したいと申し出たのです。
こうして見事な精舎は、ジェータ王子の樹園〔祇樹(ぎじゅ)〕・給孤独の園という2人の名を冠して祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、略して祇園精舎として釈尊最愛のお寺となりました。長者こそ初期仏教教団を物心両面で支えた代表的在家信者といえるでしょう。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

国宝本 正像末法和讃 第37首

眞實信心の称名は 如来廻向の法なれば
不廻向と名づけてぞ 自力の称念嫌はるる

真実の信心に基づく称名念佛は、阿弥陀佛が我々にお与え下さった教法であるから、我々の方からは何一つ佛にさし上げるものはないので、これを「さし向けない法」と名づけ、称名の功徳を佛に捧げようとする自力の念佛を、この趣旨にはずれたものとして、佛はお嫌いになるのである。

不廻向は、信心も称名も、すべて如来から衆生に廻向されるものであって、凡夫の我々が佛にさし向けるものでない。凡夫の側からは不廻向であるということ。凡夫の側から廻向するのが自力の称念。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

 

勤行本として依用しています文明本
正像末法和讃 第38首

眞實信心の称名は 弥陀廻向の法なれば
不廻向と名づけてぞ 自力の称念嫌はるる

前の和讃(37首)を、もう一つ深めてお詠いになった和讃です。「真実信心の称名」、「如来廻向の信心とともにある称名」と。如来の心が私の上にはたらくのが信心、信ずる心も如来によっていただいたものです。信心をともなわない念仏は念仏になりません。信心は念仏にかえります。「称名」といったら、南无阿弥陀仏そのものになることです。「如来のお心が私のなかにふき出したお念仏は、これは阿弥陀から与えられた法であるから、不廻向となづけます」と。「不廻向」というのはへんな言葉ですけれど法然上人の言葉です。だからこの「不廻向」という言葉をつかいながら、法然上人への謝念を詠っておられるわけです。
「不廻向」というのは「廻向を要とせず」、私が如来に廻向するものは何もなしということです。なぜかといったら「阿弥陀の廻向の法だから、私の廻向にあらず」と。「不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」、信心からでてきた念仏でなく、「私からでてきた念仏は如来これをきらう」ということです。
この「廻向」というのが、真宗では非常に重要になります。だいたい「廻向」という字は、こちらから向こうへというかたちででてきた字なのです。ところが真宗では、如来のお仕事が「廻向」、私の仕事は「廻心」なのです。「廻心」というのは私の心がひっくり返る、自分の心では如何ともし難いことを「廻心」という。心をひるがえす。如来の方から自分の全体を私に与えて下さることを「廻向」という。くるっと廻して向きをかえてこられる。自分の全体を南无阿弥陀仏として、われをたのめよという。「私において廻向ということはありません」と、これをはっきりとお詠いになったご和讃であります。
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
08最初の説法(さいしょのせっぽう)
梵天(ぼんてん)(天の神の代表)の強い勧めにより、お釈迦(しゃか)さまは7週間にわたる菩提樹(ぼだいじゅ)下の法悦(ほうえつ)のあと、いよいよ教化伝道(きょうけでんどう)の旅に出られました。35歳の時であります。教法を説く最初の相手を誰にするか。かつて苦行(くぎょう)を共にしていたが、お釈迦さまの苦行放棄を堕落(だらく)と勘違いして去っていった5人に思い付かれました。
ガンジス川を渡りベナレスの町外れ鹿野苑(ろくやおん)に着かれました。5人は、はじめお釈迦さまを堕落僧として無視しようとしたのですが、お釈迦さまの堂々たる威容に接し圧倒され、しらずしらずのうちにひざまずき、み教えに耳をかたむけはじめました。
お釈迦さまは5人に向かって説かれました。
「人間は老い病み死んでいく。すべての存在するものは、因縁(いんねん)によって生まれ、因縁によって移ろい変わってゆくものだ。人間が本当の幸福に到達する道は欲望を捨て、自分に対する執着(しゅうちゃく)を棄て、清らかに生きることだ。私が苦行を棄てたのは決して世俗に還ったのでも、精進努力を怠ったのでもない。私が覚(さと)れる法をあなたたちに教えるでしょう。教えられた通りに行えば出家の目的は達せられて無上の覚りを得ることができるでしょう」と。ここで、5人はいよいよお釈迦さまの説法に随喜(ずいき)し弟子となりました。
この説法を初転法輪(しょてんぽうりん)といいます。転法輪(法輪を転ずる)とは、法を説くことで、教えの輪がだんだんと世の中にひろまっていくことをいいます。それが最初の説法でした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
07梵天勧請(ぼんてんかんじょう)
インドでは、さとりを開いた人を仏陀(ぶっだ)(ほとけ)といいます。お釈迦(しゃか)さまが仏陀となられました。
縁起(えんぎ)の法則があらゆる変化、現象のもとになっている。人間はすべて老い、病み、死んでいく。これも縁起の法則によって変わっていく姿なのだ。また、苦の原因がどこからくるのか。貪欲(とんよく)(むさぼり)、瞋恚(しんに)(いかり)、愚痴(ぐち)(おろかななげき)の三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)もまた、縁起の法則に依って起きてくるのだが、これを人間自身の力で失わせるかどうか。ここまで確かな実証の裏付けがないと人間の救いはありえない。果たして自分の力でできるかどうか。たとえできないとしても仏陀は、この縁起の法を自分だけにとどめておけるものではない。すべての人々に伝え、浄土に救いとるのが仏陀の役割ではないか。
お釈迦さまは、仏陀となられてからも、7週間という長い間瞑想(めいそう)を続けて、仏陀としての使命についてお考えになったといいます。
「自分が悟った真理は、非常に奥深く、極めて難しい。たとえ人々に説いても、理解する者はほとんどいないだろう。」と躊躇(ちゅうちょ)していると、梵天(ぼんてん)(天の神の代表)が現れて、「真理はいかに難しくても、それを理解するものは必ずいます。どうか、真理を説いてほとけになる道を明らかにしてください。」と頼みました。これを「梵天の勧請」といいます。
そこで、仏陀は、この梵天の声に強くゆり動かされて、ようやく立ち上がり、以後45年間の苦難の多い伝道の旅に出発されることになりました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より