ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
13自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)
お釈迦(しゃか)さまは悟(さと)られてから40数年、ガンジス河の流域で教えを説いてまわられましたが、最後は故郷のカピラ城を目指しての教化の旅でありました。
今その疲れ切った老躯(ろうく)をおし、なおインドの大地を歩むお釈迦さまの姿に、私たちは言いようのない畏敬(いけい)と真実への燃えるような熱情に驚嘆し、かえってそこにまた親愛の情さえおぼえます。お釈迦さまはガンジス河を北にわたり、そしてバイシャリーという街へはいられました。そして、阿難をはじめとする弟子たちに、説法をして過ごされましたが、お釈迦さまはここで激痛をともなった重い病気にかかられました。その苦痛を堪え忍ぶ中で、最後の教えを請う阿難に「私は誰彼の差別なく教えを説いてきた。私は年月を重ねて老衰し、このお身はあたかも古ぼけた車が皮紐の助けによってようやく動いているよう なものだ。阿難よ、それゆえ私の死後も他を頼りとせず、誰もが、ただ自己と法とのみをよりどころとせねばならない」と説かれました。これが「自らを灯明とせよ。法を灯明とせよ」と言う有名な教えです。親鸞聖人もこの教えを心とされ、「自灯明」のこころを「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)によって、仏のいのちを我が命とする輝かしいいのちを果たす人間となれ」、また「法灯明」のこころを「仏の教える真実の道を、己の計(はか)らいを捨てて教えのままに生きよ」と教えられました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
12お浄土への導き『阿弥陀経』(おじょうどへのみちびき『あみだきょう』)
お釈迦(しゃか)さまのご一生はガンジス河流域を巡って各地で教えを説かれました。インドには3ヶ月も雨季がありますから、そんなときには祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などで説法をされ『阿弥陀経』もそこで説かれました。
『阿弥陀経』は私たちには大変親しいお経です。これはお釈迦さまが74歳のときに、舎利弗はじめ1250人の弟子や、生きる苦しみ、悩み、死んでいく不安にさいなまれている人々に、たとえ死んでいっても、お先真っ暗ではないよ、こんなすばらしい世界があるんだよと、大きく三つのことを説かれました。
第一は、お浄土には池に車輪のような蓮の花が一杯命を輝かせ、すばらしい音楽がどこからともなく聞こえ、こよない鳥の鳴き声が聞こえてくる。それはみな如来(にょらい)が今も説法していてくださることなんだよ。第二は、そのお浄土に生まれるには、ただ仏さまが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と言葉になって呼びかけてくださる、それに応えて私が「南無阿弥陀仏」と申す時、その声は私からでたのではなく、仏さまの声の山彦と考えてお念仏しなさい。そうしたら、お浄土に生まれることができる。第三は、以上のことは私の独断ではなく、東、南、西、北、下、上方のあらゆる世界の諸仏がたも、私の説いたことをほめたたえてくださっています。
これらを聞いていた人々は、心に一杯の歓びをいただき、お釈迦さまにお礼をして去っていきました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
11一所不住のご生涯(いっしょふじゅうのごしょうがい)
お釈迦(しゃか)さまの究極の目的は、真実の智慧(ちえ)を得ること【正覚(しょうがく)】、心の悩みの炎を消すこと【涅槃(ねはん)】、迷いの世界から抜け出すこと【解脱(げだつ)】、でした。そしてその生活は、み仏の心をいただき、それを人々に説き広めるためのものでした。
毎日の生活も、その目的にそって、朝早く起きて瞑想(めいそう)し、托鉢(たくはつ)し、求めに応じて法を説くことでした。質素な衣と托鉢用の鉄鉢(てつはち)だけで、履き物を用いず、乗り物にも乗らず、雨季の3ヶ月は祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などに滞在された以外は、町から町へ、村から村へと旅をして、み教えを説き廻られたのです。1カ所にとどまらず、足の赴くままに旅をする、いわゆる一所不住のご生活だったのでした。
しかし、さとりを開かれてからの45年間は、ことに因縁の深かった場所で説法されることが多かったようです。たとえば『阿弥陀経(あみだきょう)』はお釈迦さまが最も好まれた祇園精舎で説かれたと、お経の最初に述べられていますし、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』や『法華経(ほっけきょう)』などは王舎城(おうしゃじょう)、耆闍崛山(ぎしゃくせん)〔霊鷲山(りょうじゅせん)〕で説かれたと、やはりお経のはじめに出ています。
その耆闍崛山は、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』が説かれた王舎城の牢獄(ろうごく)から歩いて3、40分のところにある岩山でした。
こうしてお釈迦さまのご生涯をたずねてみますとき、親鸞聖人(しんらんしょうにん)もまた、京都から越後へ、越後から関東へ、そして帰洛(きらく)へと一所不住のご一生であったように思います。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
10王舎城の悲劇(おうしゃじょうのひげき)
王舎城はインドの東部にあるお城です。2、300メートルの高さの岩山で、その城壁は今でも残っています。この王舎城で大変な悲劇がおこったのです。
王舎城等を中心にお釈迦(しゃか)さまの弟子は数え切れないほど増えてきました。その中に提婆達多(だいばだった)という人がいました。お釈迦さまの従弟にあたり、頭の鋭い反面、嫉妬心が強く、教団を乗っ取ろうと企み、お釈迦さまを亡き者にしようと恐ろしい計画を立てました。山から岩を落としたり、象に酒を飲ませて踏み殺そうとしましたが、いずれも失敗しました。
そこで、王舎城の頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と韋提希夫人(いだいけぶにん)に阿闍世(あじゃせ)という王子がいるのに目をつけた提婆達多は、その出生にまつわる指の傷が、父王があなたを殺そうとした証であるとそそのかしたのでした。
怒った阿闍世は直ちに父王を牢に入れ死を待つことにしました。しかし、一向に亡くなる気配のないことを不審に思って牢番に尋ねると、夫人が隠し持った食物をしばしば運んだことが分かり、母といえども我が敵であると剣を抜いて殺害しようとしましたが、大臣や侍医にいさめられ、やむなく母も王宮の奥深く幽閉したのでした。
韋提希夫人は阿闍世を産んだ宿業(しゅくごう)の深さを嘆き、身悶えながらお釈迦さまに救いを求めました。そこでお釈迦さまは夫人や未来悪世の衆生のために、極楽世界に生まれるための様々な方法があること、しかし最も大切なことはお念仏を喜ぶ身になることだと教えられました。この教えが『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』であります。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
09精舎の建立(しょうじゃのこんりゅう)
最初の説法地鹿野苑(ろくやおん)を発たれたお釈迦(しゃか)さまは、各地で説法をつづけられ、多くの人々がみ教えに帰依(きえ)してお弟子となりました。そうしてあの成道(じょうどう)(さとり)の地ウルベーラを目指され、やがて千人の弟子たちを率いて王舎城(おうしゃじょう)に入られました。ここは頻婆娑羅(びんばしゃら)王の領地で6年ぶりの再会に王はもとより王妃韋提希(いだいけ)も大変喜ばれました。それは成道の暁には必ずお会いしますとの約束をはたされたからです。
感激された王は、城の近くの竹林の地を選び、釈尊やお弟子たちのためにお寺(精舎)を寄進されました。これが有名な竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)です。
以後ここを拠点としてみ教えは益々広がってゆきました。
そして、舎利弗(しゃりほつ)や親友の目犍連(もっけんれん)をはじめ多くの弟子たちもお釈迦さまのもとに入門しました。
更に忘れてはならないのが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)です。お釈迦さまの故郷カピラ城に近いコーサラ国の首都舎衛城(しゃえじょう)に給孤独(きっこどく)という長者がいましたが、彼は熱心な信者で釈尊にお寺を献上したいと考えました。そうして舎衛城近くの森が最適と思い、地主のジェータ王子に交渉しましたところ、黄金を敷き詰めたら売ってやろうとの難題をもちかけました。しかし、長者は早速に牛車で黄金を運び敷き詰めたのです。地主もその行為が尊いも のと気付き自分も協力したいと申し出たのです。
こうして見事な精舎は、ジェータ王子の樹園〔祇樹(ぎじゅ)〕・給孤独の園という2人の名を冠して祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、略して祇園精舎として釈尊最愛のお寺となりました。長者こそ初期仏教教団を物心両面で支えた代表的在家信者といえるでしょう。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

国宝本 正像末法和讃 第37首

眞實信心の称名は 如来廻向の法なれば
不廻向と名づけてぞ 自力の称念嫌はるる

真実の信心に基づく称名念佛は、阿弥陀佛が我々にお与え下さった教法であるから、我々の方からは何一つ佛にさし上げるものはないので、これを「さし向けない法」と名づけ、称名の功徳を佛に捧げようとする自力の念佛を、この趣旨にはずれたものとして、佛はお嫌いになるのである。

不廻向は、信心も称名も、すべて如来から衆生に廻向されるものであって、凡夫の我々が佛にさし向けるものでない。凡夫の側からは不廻向であるということ。凡夫の側から廻向するのが自力の称念。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

 

勤行本として依用しています文明本
正像末法和讃 第38首

眞實信心の称名は 弥陀廻向の法なれば
不廻向と名づけてぞ 自力の称念嫌はるる

前の和讃(37首)を、もう一つ深めてお詠いになった和讃です。「真実信心の称名」、「如来廻向の信心とともにある称名」と。如来の心が私の上にはたらくのが信心、信ずる心も如来によっていただいたものです。信心をともなわない念仏は念仏になりません。信心は念仏にかえります。「称名」といったら、南无阿弥陀仏そのものになることです。「如来のお心が私のなかにふき出したお念仏は、これは阿弥陀から与えられた法であるから、不廻向となづけます」と。「不廻向」というのはへんな言葉ですけれど法然上人の言葉です。だからこの「不廻向」という言葉をつかいながら、法然上人への謝念を詠っておられるわけです。
「不廻向」というのは「廻向を要とせず」、私が如来に廻向するものは何もなしということです。なぜかといったら「阿弥陀の廻向の法だから、私の廻向にあらず」と。「不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」、信心からでてきた念仏でなく、「私からでてきた念仏は如来これをきらう」ということです。
この「廻向」というのが、真宗では非常に重要になります。だいたい「廻向」という字は、こちらから向こうへというかたちででてきた字なのです。ところが真宗では、如来のお仕事が「廻向」、私の仕事は「廻心」なのです。「廻心」というのは私の心がひっくり返る、自分の心では如何ともし難いことを「廻心」という。心をひるがえす。如来の方から自分の全体を私に与えて下さることを「廻向」という。くるっと廻して向きをかえてこられる。自分の全体を南无阿弥陀仏として、われをたのめよという。「私において廻向ということはありません」と、これをはっきりとお詠いになったご和讃であります。
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
08最初の説法(さいしょのせっぽう)
梵天(ぼんてん)(天の神の代表)の強い勧めにより、お釈迦(しゃか)さまは7週間にわたる菩提樹(ぼだいじゅ)下の法悦(ほうえつ)のあと、いよいよ教化伝道(きょうけでんどう)の旅に出られました。35歳の時であります。教法を説く最初の相手を誰にするか。かつて苦行(くぎょう)を共にしていたが、お釈迦さまの苦行放棄を堕落(だらく)と勘違いして去っていった5人に思い付かれました。
ガンジス川を渡りベナレスの町外れ鹿野苑(ろくやおん)に着かれました。5人は、はじめお釈迦さまを堕落僧として無視しようとしたのですが、お釈迦さまの堂々たる威容に接し圧倒され、しらずしらずのうちにひざまずき、み教えに耳をかたむけはじめました。
お釈迦さまは5人に向かって説かれました。
「人間は老い病み死んでいく。すべての存在するものは、因縁(いんねん)によって生まれ、因縁によって移ろい変わってゆくものだ。人間が本当の幸福に到達する道は欲望を捨て、自分に対する執着(しゅうちゃく)を棄て、清らかに生きることだ。私が苦行を棄てたのは決して世俗に還ったのでも、精進努力を怠ったのでもない。私が覚(さと)れる法をあなたたちに教えるでしょう。教えられた通りに行えば出家の目的は達せられて無上の覚りを得ることができるでしょう」と。ここで、5人はいよいよお釈迦さまの説法に随喜(ずいき)し弟子となりました。
この説法を初転法輪(しょてんぽうりん)といいます。転法輪(法輪を転ずる)とは、法を説くことで、教えの輪がだんだんと世の中にひろまっていくことをいいます。それが最初の説法でした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
07梵天勧請(ぼんてんかんじょう)
インドでは、さとりを開いた人を仏陀(ぶっだ)(ほとけ)といいます。お釈迦(しゃか)さまが仏陀となられました。
縁起(えんぎ)の法則があらゆる変化、現象のもとになっている。人間はすべて老い、病み、死んでいく。これも縁起の法則によって変わっていく姿なのだ。また、苦の原因がどこからくるのか。貪欲(とんよく)(むさぼり)、瞋恚(しんに)(いかり)、愚痴(ぐち)(おろかななげき)の三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)もまた、縁起の法則に依って起きてくるのだが、これを人間自身の力で失わせるかどうか。ここまで確かな実証の裏付けがないと人間の救いはありえない。果たして自分の力でできるかどうか。たとえできないとしても仏陀は、この縁起の法を自分だけにとどめておけるものではない。すべての人々に伝え、浄土に救いとるのが仏陀の役割ではないか。
お釈迦さまは、仏陀となられてからも、7週間という長い間瞑想(めいそう)を続けて、仏陀としての使命についてお考えになったといいます。
「自分が悟った真理は、非常に奥深く、極めて難しい。たとえ人々に説いても、理解する者はほとんどいないだろう。」と躊躇(ちゅうちょ)していると、梵天(ぼんてん)(天の神の代表)が現れて、「真理はいかに難しくても、それを理解するものは必ずいます。どうか、真理を説いてほとけになる道を明らかにしてください。」と頼みました。これを「梵天の勧請」といいます。
そこで、仏陀は、この梵天の声に強くゆり動かされて、ようやく立ち上がり、以後45年間の苦難の多い伝道の旅に出発されることになりました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
06さとり
6年間の山中における苦行によって、心身ともに疲れ切っていたお釈迦(しゃか)さまは、スジャータから乳粥(かゆ)の布施(ふせ)を受けて再び生気をとりもどされました。そして、今度はブッダガヤにある大きな菩提樹(ぼだいじゅ)のもとで瞑想(めいそう)に入られました。
悪魔は相変わらず押し寄せてきて、精神統一をしているお釈迦さまの邪魔をしました。悪魔とは、私たちの眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)〔六根 (ろっこん)〕から入ってくる誘惑のことです。例えば、美味しい食物の匂いがすると食欲がそそられるといった具合です。自分に都合のよい意見や話には耳を傾けてしまうし、世間の学説や評判を常に気にすることなどは、修行しているものにとってはすべて悪魔なのです。
しかし、お釈迦さまは、今度こそ見事に、これらの悪魔に動ずることもなく誘惑を断ち切って、遂にさとりを開かれたのでした。
さとりとは、
あらゆるものは、縁によって生まれ、縁によって変化し、
縁によって滅するという「縁起(えんぎ)の道理」によることを
明らかにされたのです。
お釈迦さまは、このようにさとられて、私たちに救いの道を説かれることになりました。
さとりをひらいて仏陀(ぶっだ)となられたとき、お釈迦さまは35歳でした。また、さとりをひらいた日が12月8日だったので、この日を「成道(じょうどう)の日」と呼んでいます。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

 

 

『お釈迦さんワールド』龍谷ミュージアム
龍谷ミュージアムの平成30年春の特別展示は、『お釈迦さんワールド』と銘打った展覧会でした。展覧会では4つの角度からお釈迦さんを考えることになりました。①お釈迦さんの生きた時代を俯瞰すると今の私達も知る多くの思想家が現れた時代のようです。会場のコラムに「鉄器や貨幣といった新たな技術やシステムの普及が、新しい思想・哲学を求め時代」とのこと「現代社会も、インターネットやAIといった新しい技術が急速に広まっているのでお釈迦さんの時代とよく似た時代のように感じられる」とありました。②お釈迦さんの生涯は、以前から知っていたつもりですが、ガンダーラの仏伝を見ているとまだまだ知らないこともありました。③お釈迦さんが亡くなられてからの仏教徒の追慕は今にも続いています。誕生をお祝いする花祭りやお悟りになられた成道会、亡くなられた時の涅槃会は、お寺の行事として多くの寺院で開催されています。④お釈迦さんの遺骨についても亡くなられた後の仏教の流れを知るとともにご遺骨を納めた器もさまざまで興味深く拝見しました。改めて仏教の開祖としてのお釈迦さんを身近に感じることができした。また、私(住職)が小さい頃に発表されていました手塚治虫氏の「ブッダ」の原画がたくさん展示されているのが懐かしい気持ちになれて、これまでに無い展示と思いました。

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
04苦行(くぎょう)
お釈迦(しゃか)さまが29歳のある夜。いとしい、妻(つま)と子どもにそっと別れを告げ宮殿をあとにされました。お供には愛馬カンタカと馬の世話係のチャンナだけです。夜通し走り続け、朝方にアノーマー川につきました。そこで、身につけていた宝石や衣服をぬぎすて、カンタカやチャンナとも別れ、ひとり川を渡られました。
この時、お釈迦さまは、どうすれば「生老病死(しょうろうびょうし)」という四つの苦しみから逃れることができるのか、過去未来現在(かこみらいげんざい)の三世にわたる道理を見極めるまでは城には戻るまいと決心されたのでした。
お釈迦さまは、粗末な小屋で雨露をしのぎ、巨樹(きょぼく)の下や、洞穴、岩の上など瞑想(めいそう)する場所を変えながら断食(だんじき)をして、自ら苦行に向かって精進されました。この頃、道理を見極め、悟りをひらく道は自らの苦行しかないと信じられていたのです。骨と皮ばかりになって幾度も生死の境をさまよったといわれます。
このような修業(しゅぎょう)が6年間続きました。「ゴーダマ(当時、お釈迦さまはこう呼ばれていました)は死んだぞ」という噂さえたったのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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※妙華寺では4月7日8日に「メリシャカ」(花祭り)を行っています。

本堂前に花御堂を安置します。よろしければ庭の花を1本お持ちいただき荘厳していただきます。甘茶もご用意しています。