ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
04苦行(くぎょう)
お釈迦(しゃか)さまが29歳のある夜。いとしい、妻(つま)と子どもにそっと別れを告げ宮殿をあとにされました。お供には愛馬カンタカと馬の世話係のチャンナだけです。夜通し走り続け、朝方にアノーマー川につきました。そこで、身につけていた宝石や衣服をぬぎすて、カンタカやチャンナとも別れ、ひとり川を渡られました。
この時、お釈迦さまは、どうすれば「生老病死(しょうろうびょうし)」という四つの苦しみから逃れることができるのか、過去未来現在(かこみらいげんざい)の三世にわたる道理を見極めるまでは城には戻るまいと決心されたのでした。
お釈迦さまは、粗末な小屋で雨露をしのぎ、巨樹(きょぼく)の下や、洞穴、岩の上など瞑想(めいそう)する場所を変えながら断食(だんじき)をして、自ら苦行に向かって精進されました。この頃、道理を見極め、悟りをひらく道は自らの苦行しかないと信じられていたのです。骨と皮ばかりになって幾度も生死の境をさまよったといわれます。
このような修業(しゅぎょう)が6年間続きました。「ゴーダマ(当時、お釈迦さまはこう呼ばれていました)は死んだぞ」という噂さえたったのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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※妙華寺では4月7日8日に「メリシャカ」(花祭り)を行っています。

本堂前に花御堂を安置します。よろしければ庭の花を1本お持ちいただき荘厳していただきます。甘茶もご用意しています。

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
03四門出遊のお話(しもんしゅつゆうのおはなし)
19歳になったシッダッタ太子(たいし)は、王様のはからいで、ヤショーダラー姫と結婚されました。しばらくの間、夢のような楽しい月日を過ごされましたが、世の無常や弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)の世の争いの姿をみることによって、心の中に世のはかなさが、いっそう広がっていきました。父王も太子の心を明るくさせようと、いろいろ苦心されました。
ある日のこと、太子は、お供をつれて東の門から出られました。途中でシワだらけの老人に出会いましたが、その姿を見て、老いることの現実に驚かれました。数日して、太子は、南の門から出ることがありました。そこには髪(かみ)を乱し、顔色は土のようで、手足をふるわす病人をご覧になりました。また西門から出たときは、見慣(みな)れない行列に出会いました。それは葬式(そうしき)の列でした。太子は、私の一番恐ろしいものに出会ったといって、城の中に逃げ帰られました。
「人とは歳をとり、病人となり、そして、死んでいくものなのか、このようなつらい悲しいことのない世界はないのだろうか」と、考え込みました。
最後に北の門から出たときは、質素(しっそ)だが、気高く、堂々とした修行者に出会いました。その姿にうたれた太子は、「そうだ、私の求めている道もあそこにあるのだ。この修行者のように、自分も城を出て修業をつもう。そうすれば、老・病・死の苦しみから逃れる道が見つかるかもしれない」と、心に決められ、ただひとり、悟りの世界に向かって大きな歩みを開始されたのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

妙華寺では、2月15日から3月15日まで西余間に涅槃図をお掛けしています

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―お釈迦様のご生涯―
02 世の無常を痛まれる(よのむじょうをいたまれる)
シャカ族のカピラ城では、王子さまがお生まれになったという知らせに、人々は大よろこびで、宮殿へお祝いにまいりました。アシタ仙人は王子を見た瞬間、「こんなに立派な王子さまを見たことがない。きっと世界の人々を救われるすばらしいお方になられることでしょう」と言って涙を流して喜びました。
王子さまはシッダッタ太子(目的を達成した人)と名づけられました。
しかし、大変悲しいことがおこりました。太子がお生まれになってから7日後、母の摩耶夫人(まやぶにん)が突然病気で亡くなってしまわれたのです。
こうした悲しみも乗り越えられ、父の浄飯王(じょうぼんのう)や義母や、その他の人々の慈愛をうけて、立派に成長されてゆかれました。
ある日、太子は、なにげなく田んぼの方に目をやりました。農夫が掘りかえした土の中から、ミミズやカエルなど、小さな生き物が出たり入ったりしていました。すると空から鳥が舞いおりて、サッとくちばしにくわえて飛び去っていきました。きっとあの鳥に喰い殺されることであろうと心から悲しまれました。
そして、人間も動物もどうしたら争いがなくなるだろうかと、深くお考えになりました。心のやさしい王子さまであったのでしょう。だから、すべての人々を救わなければならないと、太子は自分自身が苦しまれ、やがて、このお心が、私たちへの願い、お念仏(ねんぶつ)の教えとなって今に伝えられています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―

01 花まつり(はなまつり)
釈尊(しゃくそん)は今からおよそ2500年前、北インド(現在はネパール)にお生まれになりました。
釈尊の教えは、どれほど世の中が変わっても、人間というものの本質には変化がないということを示され、今もなお、人々の心に深い感動を与え、生きていくための指針となっています。
伝説では、釈尊がお生まれになる前のある夜、母の摩耶夫人(まやぶにん)は、不思議な夢をご覧になります。「真っ白い大きな象が天から降りてきて、夫人のお腹に入った。」と伝えられています。
夫人と父の浄飯王(じょうぼんのう)は、さっそく、この夢の意味を学者に尋ねました。学者は「これはおめでたい。やがてすばらしい男の赤ちゃんがお生まれになるにちがいありません。」と言いました。
それから1年ちかくたちました。夫人は、おともをつれてカピラ城の東方のルンビニー園に行かれました。夫人は池で沐浴し、枝もたわわに咲き匂う無憂樹(むゆうじゅ)という木の下に立たれた時、男の赤ちゃんが誕生されました。その時、天から「甘露(かんろ)(甘い水滴)」の雨が降り注ぎました。不思議なことに、赤ちゃんは7歩(迷いの世界を超えることを表す)歩き、右の手で天を左の手で地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(1人ひとりの命の尊厳)」と言われました。この赤ちゃんが成長されてお釈迦様になられたのです。
これは4月8日のこととされていて、この日を記念して「花まつり」のお祝いをするようになりました。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第25回】親鸞聖人のご臨終
人間としてこの世に生まれてきたからには、いつの日か、ある日例外なく突然死ななければなりません。人の死については昨日も聞き、今日も見聞きしているのですが、死をほんとうに自分のこととしてとらえることは難しいようです。
親鸞聖人の臨終はいかがだったのでしょうか。
聖人は晩年、京都から関東の弟子たちに往生浄土が近づいたことについてお便りをしてみえます。現代の人に最もわかりやすいのが、高田派の「親鸞伝絵(でんね)」や本願寺派の「御伝鈔(ごでんしょう)」でしょう。
それらを要約し意訳してその内容を紹介しましょう。
聖人は弘長2年(1262年)いささか、いつもと違って健康がすぐれなくなられ、それからは、口に世間のことなどを話さず、余分なことを語らず、ただ、仏恩の深いことだけを語られ、もっぱら念仏称名の声がたえることなく、11月28日のお昼過ぎ、ついに亡くなられました。御歳90歳でしたと記録されています。
ご臨終の枕辺には数少ない直弟と末娘の覚信尼さま、次弟の尋有さまがおられたぐらいのさみしく静かな場であったと思われます。
さて私たち真宗のみ教えを心の糧として生きる者は、この聖人のご生涯をしのび、ますます聞法の道に精進して参りましょう。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

報恩講(ほうおんこう)
報恩講は、宗祖親鸞聖人のご命日をご縁として厳修されます。
高田本山では1月9日から16日までの7昼夜にわたっての法会で「お七夜さん」の名で親しまれています。妙華寺では、以前は12月14日から16日に勤めていました、現在は、12月の第一日曜日にお勤めしますので、12月3日です。
文字通り報恩講は、聖人にお礼を申し上げる法会です。それは煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)である私は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道(さんなくどう)に墜ちて当然でありますが、他力念仏の大道をお教えいただくことにより、お浄土に往生させていただく身になるからです。
聖人は、「この強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(あ)い難(がた)いこと」として、和讃に
如来大悲の恩徳は  身を粉にしても報ずべし
師主・知識の音読は  骨をくだきても謝すべし
と述べられました。
阿弥陀如来が「わが名を称えるものは、必ずお浄土に往生させます」という超世(ちょうせ)の願い(大悲)を成就され、お釈迦さま(師主)がこの世に出られて説法され、その道理を三国(さんごく=インド・中国・日本)の七高僧(知識)が正しく伝承されて、「南無阿弥陀仏」が私に届けられたのであります。聖人は、この経緯を自らの喜びとして、詳しくお示しされたのが真宗の教えであります。聖人は、このご縁はなにものにも代えることができない尊いことで「身を粉にしても、骨をくだいても報謝すべし」と最大級のお言葉で申されました。

報恩講の荘厳の特徴は、西余間に親鸞聖人絵伝(四幅)を掛け親鸞聖人の御生涯をわかりやすく拝見できます。(以前は絵説きもあったようです) また、聖人の宮殿のお戸帳も外して聖人像がいつもより拝顔できる喜びもあります。(高田本山では15日の初夜のお勤めの後、内拝と言って出勤法中が内陣でお焼香をさせていただきます)
昨年よりご法話修了後、内陣の聖人像を内拝していただき西余間の絵伝を拝見してお帰りいただく予定です。

 今年は、西本願寺派の布教使で龍谷大学大学院教授の葛野(かどの)洋明(ようみょう)師にご法話いただきます。葛野(かどの)洋明(ようみょう)師は、西本願寺派布教使で龍谷大学大学院教授です。また高田派の若い布教使の育成に助言されています。今回は、衆徒(娘)のご縁で、妙華寺でご法話をいただきます。一人でも多くの皆様にご聴聞をいただきたいと思います。

妙華寺では、年5回の行事のご法話をお聴聞していただきますと「法会参加票」に押印させていただいています。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第24回】悲喜を越えて念仏往生
もと「板敷山弁円」と呼ばれ、聖人を襲った明法房がその後改心して弟子となり、ご信心を頂き、お念仏を歓ぶ人となりましたが、聖人80歳のとき、明法房がお念仏の歓びの中で往生したことをお聞きになり「なにごとよりも明法御房の往生の本意とげて・・・めでたきことにてさふらへ」とお歓びになりました。
また関東へ派遣された、長男慈信房は「深夜父に教えを受けた」「念仏はしぼんだ花だ」等といって教団を乱し始めました。それを知られた聖人は我が子の、法を誹謗する振舞を見て「いまはおやということあるべからず。ことおもうことおもいきりたり」と涙を流しながら義絶状をお書きになりました。お念仏の教え護持のため厳しい裁きをされた聖人の眼に宿る涙にはどんな想いがあったのでしょう。
こんな中でも、85歳のときは「目もみえず候、なにごともみなわすれて候」と言われながら、なおまだ筆を運ばれていました。
90歳の頃、弟子の有阿弥陀仏に対して「としきはまりて」とか「さだめてさきだちて往生」し「浄土にてかならずかならずまちまいらせ候」とご心境を語られ、「かならずかならず」と有阿弥陀仏にお念仏の相続をねんごろに導かれています。
いよいよ聖人御不例の報に専信房が上洛、顕智上人と二人で聖人のご臨終をお世話されました。時に弘長2年11月28日(1262年)、御年90歳で仏の本願に生き抜かれた聖人は浄土に御往生されました。
南無阿弥陀仏
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第23回】京での晩年
関東ではご家族とご一緒だったようですが、経済的な裏付けのおぼつかない京での生活を考えられひとまず単身で帰洛され、三条富小路の善法坊、御弟尋有僧都の住坊等に居られたようです。
京でのご生活は、関東の門弟からの喜捨によって支えられ、大抵は200文300文が通例だったようですが、時には5貫文もあったようです。1貫文は米一石に当たるようですから、4万円ぐらいでしょう。ですから、聖人は案外豊かであったという人もありますが、何分にも人々の志ですからいつも十分ではなかったでしょう。
大切にされていた写本『唯信鈔』の綴じ目を外され、紙の折り目を裏返して『涅槃経』が書き写されています。これは重要文化財として本山に残っていますが、紙の様子や、筆の穂先の切れ具合からも不自由な暮らしの中にあって、なお先達の教えに対する熱情がうかがえます。
また、関東の弟子たちの京への来訪や、質問状を大変喜んでみえました。
「なお覚束なきことあらば今日まで生きて候へばわざともこれへたづねたまふべし」
「明教房の上られて候ことありがたきことに候」
「いのち候はば必ずかならず上らせ給うべし」とか、聖人のお返事の末尾には
「またまた追て申すべく候」
「またたよりにて仰せたまふべし」
「何事も何事もまたまた申すべく候」
などのお言葉が記されており、遠く離れた門弟への暖かいお姿の中に「お念仏申さるべし」とのお心が珠玉のように溢れています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第22回】帰洛後は法悦の著述
およそ30年ぶりで、京都に帰られたのは文暦元年63歳の頃でした。何処にお住まいになられたかは、ほとんどわかっていませんが、吉水時代の庵室「岡崎」とか五条西洞院(現在の松原通光円寺付近)などに、聖人は侘住居を移しておられたようです。
帰洛後30年あまりの生活は「法悦の記録」をまとめるのに心血を注がれたといえるでしょう。聖覚法印の『唯信鈔(ゆいしんしょう)』を再度書写されたのをはじめとし、聖人76歳の時には、『浄土和讃(じょうどわさん)』、『浄土高僧和讃(じょうどこうそうわさん)』を著述されました。そして、既にできていた『教行証文類』の加筆や清書もありました。また、『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』や七高僧(しちこうそう)のお聖教を日夜読まれ、私たちが読みやすくわかりやすいようにと、当時の今様風の和文に整えられた和讃の文面をおつくりになられました。
なお、和讃は83歳から85歳にかけて『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』ともうひとつ太子和讃ができ、86歳のとき『正像末法和讃(しょうぞうまっぽうわさん)』ができました。
忘れてはならないのが、私たちが朝夕お勤めする『正信偈』、『文類偈』はそれぞれ『教行証文類』の「行巻」の終わりと、80歳の時に著された『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』の中にあります。この外「百余巻におよべり」と御書にありますように、沢山の著書や書写されたもの、法然上人の『選択集』を延書にされたものなどがあります。
聖人の御自筆稿本はいずれも80歳代のものですから、幾多の苦難を越えてこられた円熟の境地からの聖人のお念仏に支えられた呼びかけを、私の身の事実の上にいただいていかねばなりません。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第21回】関東から京都へ 三河にて
関東を後にした親鸞聖人は、箱根路を通り、各地でお念仏の教えをひろめながら、文暦2年(1235年)三河(愛知県)に入られ矢作川河畔にある太子堂に逗留されました。
この流域に住む民びとは各地に太子堂をつくり、太子信仰の盛んな地域でもありました。聖人はそんな太子堂の一つで、岡崎の妙源寺に17日間も留まって説法されました。
柳堂に腰をおろされた親鸞聖人は、「弥陀の本願はあらゆる凡夫を救わんがためです」と阿弥陀如来の本願をじゅんじゅんと説かれました。近隣の人々は聖人の念仏教義の深さに敬服して、真宗に帰依していきました。
当時、この太子堂の前に柳の大木があったので、里人は「柳堂」と呼び親しんでいました。国宝として現在も参詣人の絶えることはありません。この三河一帯は、後に高田の顕智上人(三世)、専信上人等が精力的に念仏布教をされた所で、次第に念仏の輪が広がっていったのであります。
ここ三河は、関東と関西を結ぶ中間的存在で、高田派寺院の最古の道場として、親鸞聖人の歩まれた貴重な足跡が残っていることに注目したいものです。
三河を発たれた聖人は、やがて近江(滋賀県)に入られ木部に錦織寺を建立され京都に向かわれたのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第20回】関東から京都へ 箱根にて
お念仏に無縁の関東の地に、念仏の種をまかれた親鸞聖人の教えは、高田門徒をはじめ各地に大きく広がりました。
しかし、関東に入られて20年、63歳頃この地を離れる決心をされました。少数の弟子をともなわれ、行脚の足を京都に向けながら、東海道の旅を続けられたのです。天下の険で有名な箱根にさしかかった時のことです。供に従ってきた性信房にこうおっしゃいました。「私が帰洛後どんな妨げがあるかも知れぬ。どうか私にかわって関東に留まり、門徒衆を教化してくれないか。」突然の仰せに当惑する性信房に、親鸞聖人は次の歌を示されました。
病む子をば あずけて帰る旅の空
心はここに 残りこそすれ
関東の門弟をわが子のように思っておられる聖人のみ心に、性信房はこの大任をお受けし、涙ながらに引き返したのです。
この時、聖人は愛用の笈を与えられたことから、この地は「笈の平」と呼ばれ「親鸞聖人御旧跡 性信房訣別之地」の石碑が歌碑と共に現存しています。
やがて、芦の湖畔、箱根権現にたどり着かれた時には夜も更けていましたが、権現が「わたしの尊敬する客がこの路を通る。丁寧にもてなすように」と、その示現が覚めやらぬ中に聖人が通られました。社人たちは、暖かくもてなし、親鸞聖人は三日三夜参籠、自ら木像を刻み献上されました。この木像は、現在も箱根神社に所蔵されています。こうして、京都への旅が、続けられたのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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