第3回『お寺で体験』

4月から開催しています『お寺で体験』の3回目は、10月22日(日)午前10時から11時30分頃まで開催いたしました。
当日は台風21号の影響で雨が本格的に降り、足もとの悪い中12名の皆様にお越し頂きありがとうございました。
また住職は、葬儀ができまして大変申し訳ございませんでしたが今回参加できませんでした。地元の「久居の歴史」についてお話をお聞かせいただくことを大変楽しみにしていましたが次の機会に譲りたいと思います。

「久居の歴史」につきましては、久居城下案内の会副代表の若林征男様にお話をいただきました。レジメに基づきお話いただきました。その後、「お寺の歴史」と「みんなの不安」について住職がお話させていただく予定でしたが、簡単な資料を作成したものを坊守が読み上げてお持ち帰りいただきました。
ご参加いただきました皆様には、質問の時間も取れずご迷惑をおかけしました。

お寺(法苑院妙華寺)の歴史(概略)

法苑院妙華寺は、1680年の久居絵図に寺地が記載されています。そして翌年1681年に草庵を結ぶとあります。現在の本堂は、1821年の久居の大火で焼失してから再建したものですので、最初の本堂がどのようなものであったかはっきりわかっていません。1800年頃に本堂内の七高僧宮殿(くうでん)や本尊宮殿の建立とありますので、初代の頃は草庵とありますので本当に小さなお堂と思われます。新しい土地で新しいお同行の皆様のご寄進で1800年頃には現在の本堂と変わらない大きさの本堂が建立されたのではないかと思っています。5代、6代の時代の1821年3月20日の久居の大火で、山門を除きすべて焼失しました。その後7代の1857年12月に本堂の棟上げし、1863年に本堂が完成しました。最初の本堂が焼失して36年ほど経ってから現在の本堂の棟上げがあり6年後の1863年が建立されましたことを思いますと42年間仮の本堂で色んな行事やお勤めをしていたことになります。高田本山の御影堂、如来堂も何度か焼失し再建されていますが、今の如来堂が完成するまで50年ほどかかっていることも思いますと、当時のお同行様のご協力に大変頭が下がる思いです。本堂が再建され、本堂内の荘厳(しょうごん)が明治時代、大正時代に整備されてきました。棟上げから数えますと70年ほどかかり9代の時代です。そして本堂は、戦争を経て、昭和が終わり、平成4年(2004)に国の登録文化財となりました。

まもなく久居開闢350年を迎えます。法苑院妙華寺もこの地で350年を迎えることになります。お寺の住職は、今12代目です。これまでの住職が大切に護ってきました法苑院妙華寺を次の世代に伝えることをお同行や地域の皆様と共に考えていきたい思っています。

 

次回は、12月24日(日)の午前10時から本堂にて、親鸞聖人の絵伝(4軸)の絵解きを開催します。絵解きについて研究、実践されています津市潮音寺住職の村上英俊使の絵解きをお楽しみいただきます。

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年忌(回)法会のお勤め

年忌(回)法会のお勤め
お同行様の年忌(回)法会のお勤めは、お経・文類偈・和讃(自宅では五首、お寺では一首)・念仏廻向文・御書(自宅では改悔文)拝読です。
「どうして文類偈なのですか」とお尋ねがございました。
高田派では、お勤めの時に「文類偈」に親しんでいます。高田本山でのお勤めの節が正式と思いますが、地域によって違いがあるのも事実です。私(住職)は、先々代、先代のお勤めの節回しを聞きながら、自分では同じと思っていますが、音程は違うようです。
妙華寺では、年忌(回)法会は、夕事(ゆうじ)のお勤めをさせていただいていますので「文類偈」をお勤めいたしますが、本堂や内仏での朝事(あさじ)のお勤めは、「正信偈」をお勤めしています。親鸞聖人が、先に「正信偈」(『顕浄土真実教行証文類』)を書かれ、「文類偈」(『浄土文類聚鈔』)は後に書かれたからと聞いています。(『顕浄土真実教行証文類』と『浄土文類聚鈔』は、どちらもはっきりした制作年代はわかっていません)
前々住職の時代には、今の時代では考えられないことですが、年忌(回)法会を夕方にお同行様の自宅でお勤めをして、翌日の朝に本堂でお勤め、続いてお墓勤めをすることもあったようです。

本山のお七夜も、逮夜(たいや)から始まり、初夜(しょや)、晨朝(じんちょう)、日中(にっちゅう)が1つのサイクルになっています。

※最近は、生活様式が変化して、家族そろってお仏壇でお勤めをする機会が少なくなり、お仏壇のお給仕(きゅうじ)やお勤めの仕方も次の世代に引き継ぐことも難しい時代なのかもわかりません。そのような時は、些細なことでもお尋ねいただきましたらお話させていただきます。また、正月を除く毎月第1日曜日の朝7時30分から8時頃まで行っています日曜学校で平素のお仏壇のお給仕や、お勤めについて、おさらいしませんか。

【お勤めの作法】
勤行本を取り出し、頂き開きます。錀(りん)を中・小・大と三回打ちます。句頭(くとう)を拝読するとき家族そろってもう一度頂きます。
朝事(あさじ)は、「重誓偈」・「正信偈」「和讃五首」・「念仏廻向文」を勤めます。和讃が終わりに近づき最後の二音で錀(りん)を二つ打ち、三打目は、念仏の句頭の最後「なまんだぶ」の「ぶ」で打ちます。廻向文は、「安楽国」の「ら」で一打。「こ」で一打、終わって一打します。お念仏しながら合掌礼拝してお勤めを終えます。
夕事(ゆうじ)は、「重誓偈」・「文類偈」「和讃五首」・「念仏廻向文」を勤めます。

『真宗高田派の平素のお給仕』より

 

10月20日、国の文化審議会は、日本の代表的な近世寺院建築とされる高田本山専修寺の御影堂(みえいどう)と如来堂(にょらいどう)を国宝にするよう答申されました。三重県内の建造物で国宝に指定されるのは初めてのことだと新聞に掲載されました。
専修寺を本山としています私たち真宗高田派に属する僧侶並びにお同行各位、三重県民、津市市民において、とてもうれしい知らせでした。これまで高田本山専修寺は、身近で親しくお詣りしていましたが、御影堂が重要文化財の建造物で国内で五指に入る大きさということは平成の大修理の時に初めて知ったことでした。
また、親鸞聖人直筆の『三帖和讃』『西方指南抄』など3点は、昭和28年に国宝に指定されて大切に保管されています。3点の国宝本は、現在、栃木県宇都宮県立博物館の『中世宇都宮氏』展(10月29日まで開催)にて展覧されています。
これから益々多くの方々が専修寺の国宝に指定される御影堂や如来堂にお詣りされると思いますがお詣りするだけでなく、親鸞聖人のみ教えにもっと触れていただきたいと思います。

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

『正像末法和讃』第53首

弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜむ(ん)人はみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏を(と)となふべし

顕智書写本では「南無阿弥陀仏ととなふべし」とあり、文明本には「をとなふべし」と変わりますのは、聖人の御苦心の存するところとうかがいます。しかもこの「ねてもさめてもへだてなく」は、私どもの生き方が強く問われます。「ねても」というのは、寝るときということだろうか、「さめても」というのは醒めたならばすぐにお念仏称えるということだろうか。そうでなしに寝ているときも称えるということだろうか。これがやれなければ、聖人を慕うような顔をしておってもはじまらない。その方がどれほど尊い方であっても、私がその道を歩むことができなければ、褒めているそのことがおかしい、自分と関係のない人を立派な人といっておっても、これははかないことになります。そういう苦しみをもって思念を続けていますと、「唯除睡時常臆念」こういう言葉をみつけたのです。これは善導の『往生礼讃』の言葉です。善導がわが身に輝いた新しい生命、仏のおんいのちを讃えまつるという『往生礼賛』、そのなかに、「眠っておるときは別にして、常に臆念する」とあります。もとの『観経』「第三観」の「唯除睡時恒臆此事」をよくおよみになったということです。これで解決ができたというのではないのですが、ある一角から光がさし込んだというところです。
もう一つ、『西方指南抄』(中本)にでるところの「もし声はなるるとき、念すなはち懈怠するが故に、常恒に称唱すれば、すなはち念相続す」と。「声はなるるとき」というのは、南無阿弥陀仏の声が途絶えると「念すなはち懈怠す」。この「念」というのは如来に思われて私が如来を思う、如来と私の思い合いです。これが「臆念」です。「懈怠」というのは「なまける」、「途切れる」ということです。だから「常恒に称唱すれば、すなはち念相続す」と。念仏の声が途絶えると、阿弥陀と私とのつながりが途切れてしまう。これが法然上人です。南無阿弥陀仏という声をはなれたら、私らは阿弥陀と直結しなくなる。ここまで念仏中心です。「懈怠」ということを嫌われたわけです。ところが親鸞聖人は、「われらは善人にもあらず、賢人にもあらず、精進なる心もなし、懈怠の心のみにして」といわれる。「精進の心もなし」。しかも与えられた南無阿弥陀仏によって、精進のできぬ身に、精進の心と力を感得するのであります。

以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

秋の千部会は、10月28日(土)午後1時30分からお勤めします。

 

永代経法会というと、亡くなられた方が少しでも早くお浄土へ往生させてもらうための供養法事と思いがちですが、大きな考え違いです。この法会は、亡くなられた方が、後に残った私たちに「仏法を聞きなさい」「お念仏を申しなさい」と呼びかけてくださる大切な仏縁であります。私たちが亡くなられた方へではなく、すでに浄土に往生された亡くなられた方が私たちの為にしていただく法会であります。

妙華寺では、永代経冥加金をお納めいただきますと、現在、永代千部会(えいたいせんぶえ)として春は4月29日(祝日)、秋は10月第四土曜日に、西余間(向かって左の余間)に加入されましたご法名を法名帳・法名軸を掲げてお勤めしています。
秋の千部会は、10月28日(土)午後1時30分からお勤めします。
 また、お勤めの後ご法話をお聴聞していただけます。
 布教使は、明通寺の佐波真教師です。
ご法話をお聴聞していただきますと「法会参加票」に押印させていただきます。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。

10月の花

四季の花 10月も半ばになり雨が続いていますが、秋の気配を感じています。秋明菊、ホトトギスに今年は、酔芙蓉が咲いています。

またお寺には松の木が多くあります。私(住職)が高校生の頃、境内の松は松食い虫で全滅しました。今ある松はその後、植樹したものです。その中の1本の松は、松葉が3つあります。高田本山の鐘楼堂付近の松の木も確か松葉が3つだったと思います。名前も分かりませんが珍しいと思います。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第22回】帰洛後は法悦の著述
およそ30年ぶりで、京都に帰られたのは文暦元年63歳の頃でした。何処にお住まいになられたかは、ほとんどわかっていませんが、吉水時代の庵室「岡崎」とか五条西洞院(現在の松原通光円寺付近)などに、聖人は侘住居を移しておられたようです。
帰洛後30年あまりの生活は「法悦の記録」をまとめるのに心血を注がれたといえるでしょう。聖覚法印の『唯信鈔(ゆいしんしょう)』を再度書写されたのをはじめとし、聖人76歳の時には、『浄土和讃(じょうどわさん)』、『浄土高僧和讃(じょうどこうそうわさん)』を著述されました。そして、既にできていた『教行証文類』の加筆や清書もありました。また、『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』や七高僧(しちこうそう)のお聖教を日夜読まれ、私たちが読みやすくわかりやすいようにと、当時の今様風の和文に整えられた和讃の文面をおつくりになられました。
なお、和讃は83歳から85歳にかけて『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』ともうひとつ太子和讃ができ、86歳のとき『正像末法和讃(しょうぞうまっぽうわさん)』ができました。
忘れてはならないのが、私たちが朝夕お勤めする『正信偈』、『文類偈』はそれぞれ『教行証文類』の「行巻」の終わりと、80歳の時に著された『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』の中にあります。この外「百余巻におよべり」と御書にありますように、沢山の著書や書写されたもの、法然上人の『選択集』を延書にされたものなどがあります。
聖人の御自筆稿本はいずれも80歳代のものですから、幾多の苦難を越えてこられた円熟の境地からの聖人のお念仏に支えられた呼びかけを、私の身の事実の上にいただいていかねばなりません。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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高田本山清掃奉仕

10月に入り過ごしやすい気候になりましたが、妙華寺の本山清掃の10日は夏日になり暑い日になりました。3年ぶりの本山清掃に、住職、坊守を含め15名でご奉仕させていただきました。

朝、9時に高田本山の内仏殿と呼ばれていますお対面所で宗務院の職員の皆様と共にお勤めをして、今回は、高田本山の裏側(北側)に位置する緑の苔に覆われた安楽庵の庭(三重県の史跡雲幽園)の清掃奉仕でした。休憩を挟んで落ち葉の掃き掃除をしました。

清掃奉仕の後、「賜晴館」(ししゅんかん)と呼ばれる明治天皇の行在所を拝見する時間をいただきました。「賜春館」は、高田派僧侶の得度式、住職拝命式の時、御法主殿から辞令をいただく場です。


その後、高田会館でお昼をいただき、お寺に帰りました。
今回の本山清掃のご奉仕に参加されました皆様、暑い中ありがとうございました。


これまでは、お世話方様、婦人会幹部の皆様だけにお願いしていましたが、ご高齢の問題もあり今回は、有志の方にお声がけしました。今後もお寺の行事にご参加いただける中でご奉仕をお願いすることもあると思いますが、ご協力をよろしくお願い申し上げます。

住職の投稿

住職の投稿
今回、私(住職)が投稿した一文を掲載させていただきます。投稿先は、『教学院報』と言う高田本山の研究機関の会報です。もう20年前のもので、寺報に掲載した文書より照れくさいものですがおつきあい下さい。(注は今回記載)
『教学院報』1997年5月発行 第5号

「私の出合った一冊」
「対治」と「同治」の世界観
昨年の伝灯奉告法会(注 平成8年で今の前ご法主殿の伝灯奉告法会)の時、五木寛之氏に本山で「慈のこころ悲のこころ」という特別講演をしていただきました。氏は、私が中学生時代(今から20数年前 注・1997年の時)以前からの著名作家で、当時毎日新聞の日曜版に随筆が毎週掲載(後『ゴキブリの歌』として出版)されて気に入って読んでいました。氏の講演を聞き、私の中の若さのもどかしさ、心の揺れを落ち着かせるために、氏の多くの本を読んでいたことをなつかしく思い、講演の中で「ともに悲しむ」ということを「慰め」と言われたと思いますが、その時、頭をよぎったのが『「対治」と「同治」の世界観』です。『「対治」と「同治」の世界観』は、平成元年(1988)4月に日刊ゲンダイ掲載の随筆です。実際私が読んだのは、『流されてゆく日々(抄)』で平成7年(1995)です。『生きるヒント3』にも『「対治」と「同治」について』と掲載されています。
医師の駒澤勝氏が、医学という科学の根本の姿勢に、仏教という立場から光を当てて、疑問を提出されている「医学と私と親鸞」という文章を五木氏が読んだ時の随筆です。
 今の医学が、健康が幸福で病気が不幸、生が善で死が悪として、どちらからを否定するところから出発する思想を「対治」として示し、そこには救われない何かがあり、あらためてすべてを肯定する思想を「同治」として駒澤勝氏の考え方が変わってゆかれたことを、五木氏自身も考え方が変わってきた中で描かれた随筆です。
医学と仏教に関心が寄せられる今、他人事でなく自分の問題として、私も若い時には気付かない事が、時間がたたないと気付かない事があるという自分の変化の中で読みました。同時に駒澤勝氏の「医学と私と親鸞」(昭和58年『日本医事新報』に収載)という論文を是非読みたいと思っています。尚、この随筆は、「午後の自画像」(角川書店1992)にも、『「医と私と親鸞」駒澤勝』として掲載されました。

※まったく内容が薄く読みにくい文章で赤面しています。私の好きな作家の五木寛之氏の考え方を変えた、駒澤勝先生の「医学と私と親鸞」を読みたい。と言うことを言いたかったのと、親鸞聖人のみ教えが医師(科学者)にも伝わっている素晴らしさを確認したかったのだと思います。この文章を読んでいただいきました愛知県の東仙寺の稲垣舜岳先生から、駒澤勝氏の「医学と私と親鸞」をお送りいただきましたこと大変驚き感謝いたしました。何も分かっていない若い私に勉強しなさいと言うメッセージをいただいたと思いました。稲垣先生のご著書もその後、拝読させていただきました。その後駒澤勝先生は、高田本山の仏教文化講座にも出講されました。また先生のご著書も拝読させていただいています。寺報30号(平成23年12月発行)の読書雑感で、『目覚めれば弥陀の懐』法蔵館を紹介させていただきました。

『お寺で体験』の3回目は、10月22日(日)午前10時から

4月から開催しています『お寺で体験』の3回目は、10月22日(日)午前10時から11時30分の予定です。
会費1,000円(当日徴収します) 準備の都合上、事前申込をお願いします。
会場は、山門左側にあります妙華寺会館です。
今回は、「久居の歴史」と「お寺の歴史」を中心に予定しています。
「久居の歴史」は、久居城下案内の会副代表の若林征男様に担当していただきます。
過ごしやすい秋の季節に私達の住んでいる久居について考えてみませんか。

式章(しきしょう)

式章(しきしょう)

先日、お仏壇廻りを整理されていたお同行様から「これ(式章)はどのように使うものですか」とお尋ねがありました。
式章は、僧侶の着用している輪袈裟(わげさ)の形で輪袈裟の下半分が紐になっています。本山や菩提寺から記念の品として式章をお渡しさせていただくことがございます。
本来、お同行の皆様が法会参詣する時に着用するもので礼服の一つとお聞かせいただきます。お寺での特別な行事(御遠忌法会や一光三尊仏御開扉法会)や本山や他のお寺に団体参詣など行く場合、式章を着用されているお姿を拝見しますが、最近は式章を着用して、葬儀、年忌法会をお勤めするお姿も少なくなりました。もしご家庭に式章がございましたら着用される機会をつくられたらいかがでしょうか?