本山清掃奉仕【事前案内】

本山清掃奉仕【事前案内】
3~4年に一度、高田本山の清掃奉仕をお願いしています。今年は10月10日(火)【10月の連休明け】が妙華寺の当番日になりました。ご奉仕いただける方は、当日午前8時に妙華寺に集合いただきそろって高田本山に行き、午前中本山内の清掃をご奉仕させていただき、昼食となります。
その後、妙華寺まで一緒に戻り解散させていただく予定です。
ご多用ではありますがご参加をお待ちしています。昼食の準備などの都合で9月25日までに、ご奉仕いただけます方は妙華寺までお知らせください。
※これまで、お世話方様・婦人会の幹部様にお願いしていましたがお同行の皆様の中でご都合がよろしければ是非ともご参加していただければと思います。
お彼岸のご案内の時に、依頼文を同封させていただき、ご奉仕をいただける方のお名前をご記入の上、9月25日までにお寺にお申し込みください。
また、お寺のHPからもご申込いただきましても結構です。

【緊急案内】

北側の水屋のポンプの柄が無くなりましたので使用できません。
ご迷惑をお掛けしますが、南側の水屋をお使いください。

正午にポンプの柄が見つかりました。お使いいただけます。

 

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 天親讃9首

信心すなわち一心なり 一心即ち金剛心
金剛心は菩提心 この心即ち他力なり

この他力真実の信心は、即ち天親菩薩の言う一心に他ならぬ。
一心はつまり善導の言う金剛心であり、それは即ち涅槃に至らんとする菩提心であって、この心こそ、凡夫の自発心ならぬ如来廻向の願力である。

※金剛心は、他力の信心は、金剛のように堅固であるから言う。善導の「散善義」に出る言葉。
※菩提心は、 金剛心によって浄土へ生まれるのであるから菩提心である。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

第8首の「他力真実の信心」を受けて、この信心は、天親論主が凡夫に分かる形を示して、二心なき一心なのだ、というのです。信ずる心といっても、きめてがつかみにくいので、これを一つの心と言い当てたのは、かたじけない表現だというのです。超絶したものを受けとめるのは、これしかないのです。
信心はどういうものであるかといえば、一心としてとらえられるものであり、善導大師のいう金剛心なのです。これは自力の我が頑固に見えているが無残にこわれていくのとちがって、一心は柔軟(にゅうなん)心ですから、人間の事情に左右されるものではないということです。この金剛心こそ、われをして仏にならしめる菩提心でありまして、この心はそのまま他力です。これによってみれば、別に菩提心をおこさずとも、おこす力がなくとも、廻向の信心が菩提心のはたらきをもっているのです。しかも他力を信ずるとか、他力によって信心を得るとか、他力と信心とが別立ではなく、信心がすなわち他力そのものです。他力と信心が二つでないところに、一心の重さを見ることができます。(以下省略)
以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】

 

50回忌

飛騨川バス転落事故50回忌
大きな災害や事故の後、ご遺族や関係者から「忘れないで」と聞く、「忘れない」と思いながら年月が経過するにつれ「忘れている」自分がいる。私(住職)が12歳の8月18日に起きた飛騨川バス転落事故の50回忌が今年に当たる。先日、当時のお同行様の子どもさんの四人家族の50回忌をお同行の先代ご夫婦(50回忌にあたるご家族のご両親)、今のお同行のご主人(兄)も既にご往生されている中で、当時を知るお同行(兄嫁)様とその娘さんと一緒にお勤めしました。
私(住職)は、事故のことはテレビや新聞で知りましたし、お同行様の子どもさん家族が事故でご往生されたことも、先々代の住職や先代住職からお聞きはしていましたが、当時のお寺での葬儀のことやその後の年忌はその時の住職がお勤めをしていましたので、恥ずかしいことですが覚えていません。大切な方が突然この世からいなくなる、それも家族全員が。自身のことで無くても胸がしめつけられる気持ちになります。色んな思いが過ぎる中で最後は、亡くなられた方々のことを思い手を合わせていただくことしか出来ない私(住職)でしかありません。ご往生されて49年を迎える中でご遺族のお気持ちにどのように向き合わさせていただくのか、ご遺族の大きな悲しみが親鸞聖人のみ教えにより生きていく中での糧としてお伝えできているのかいつも思うことであります。

 

※飛騨川バス転落事故は、1968年(昭和43年)8月18日に、岐阜県加茂郡白川町の国道41号において生じたバス事故である。乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車(のちに合併により名鉄東部観光バスを経て現在は名鉄観光バス岡崎営業所となっている)所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した。日本のバス事故史上における最悪の事故となった。

8月のお盆

 

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8月のお盆勤めも終わりました。今年は天候が不安定で、7日の初盆は台風の影響があり、11日12日は夕立があり、15日も午後から雨でした。8月のお盆勤めは、夏休みの関係で子どもさんも一緒にお仏壇の前で手を合わすご家庭が多いのは7月のお盆勤めではあまり見かけない光景です。最近は生活空間の中で坐る機会が少ない中、ご両親や、御祖父祖母様と子どもさんが一緒に正座をされている姿を見るとほほえましく思います。お仏壇の前で家族と共に手を合わせられたことをずーとは覚えていなくても、子どもさんが成長され、子どもさんにもご自分のお子さんと一緒に手を合わせる頃にきっと思い出されることと思います。また8月のお盆は、ご遠方からお墓参りに多くの方がお見えになります。今年は暦で13日が日曜日でした、この日は終日お寺の駐車場がいっぱいで迷惑をおかけしました。また、住職は、お同行様宅でのお盆勤めでお寺にいない時間が長く、お墓参りに一緒にお勤めをできませんが、後日お墓でお盆勤めをさせていただいています。
また今年は、知人のお寺のご住職様が作られた「おぼんのおはなし」の冊子をお配りしながら、都会の仏教に親しんでない方は、「お盆=休み」としてとらえられている方もあるようでお盆の由来を分かりやすく紹介してあります。そのことを踏まえて、真宗のお盆のとらえ方もご案内したいと思いました。
真宗でお盆の法会を歓喜会(かんぎえ)というのは、自分を振り返って慚愧の中に佛恩報謝をさせていただき、その喜びを信心歓喜しお念仏申すことだとお聞かせいただきます。
親鸞聖人は「歓喜」というは、「歓」は身のよろこびで、「喜」は心のよろこびと解説されています。身も心もよろこぶという大変なよろこびを「歓喜」と教えられました。
ではこのような喜びはどんなときにあらわれるのでしょう。親鸞聖人は、「私たちが、佛さまの本願(私たち凡夫を必ずお浄土に救いますという願い)を信じて、お念仏を申す心になったとき、このような大きな喜びが自然にでてきます」と申されました。
すなわち、佛さまからいえば、本願が確かであったという証明であり、私たちからいえば、すべておまかせできたという安堵であり、佛と私が共に喜ぶさまが、歓喜といえます。
また、「歓喜」というのは、私の自力の限りを尽くしても不可能であった人生課題が、佛さまの願いによって氷解した時の喜びですから、日常生活上の喜怒哀楽とは次元の違う大きな喜びであります。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第16回】関東への道すがら
建暦元年、親鸞聖人39歳のころ、越後への配流が解かれましたが、唯一の師匠、法然上人の訃報も越後へ届きました。
聖人は深く悲しみ、悩みました。流罪は許されたが、これから何処へ行くべきか、何をすべきか。法然上人のいない京へは今更行きたくもないし、越後に止まる気もない。随分と悩まれました。
そんな時、ひとつの転機が訪れました。もともと、仏法は、「辺鄙の群萌」(田舎の文字も読めぬような人々)を救済すべきものであらねばならないという基本的な考え方があったうえに、恵信尼さまの父の所領が常陸にあったご縁で、家族共々越後より関東へ移られる決心をされたのでした。関東への旅は大変なことであったと思われます。もちろん当時のことですから、徒歩です。この関東への道すがらも、多くの人々との出会いがあったことでしょう。
そのうえ、聖人はかねてから長野善光寺へお参りし、是非ご本尊の一光三尊仏を直接拝みたいという願いを持っていました。
事実、拝んでみると、ありがたいというか、もったいないというか、観音さま(慈悲)と勢至さま(智慧)を脇にはべらした阿弥陀仏の前に座ると、特別の感慨をいただかれたのです。その深い思いは、今まで書物で仏法を学んでいたが、それとは違った思いでありました。この一光三尊仏には、さらに多くの人々が、お念仏を喜んでくださる不思議なお力があるにちがいないと思われたのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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自死遺族支援者研修

8月のお盆勤めの前日10日に、三重県こころの健康センター主催の「自死遺族支援者研修」がありました。「自死遺族に寄り添うために~求められる遺族支援とは~」の講題で、リメンバー名古屋自死遺族の会の代表幹事の花井幸二氏のお話でした。講師の花井氏も自死遺族ですが、2003年にリメンバー名古屋自死遺族の会を立ち上げてから「自死遺族と支援者のためのワークショップ」・「自死遺族支援官民合同シンポジウム」の開催や、自死遺族の立場から愛知県自殺対策総合推進協議会委員、自殺対策総合計画ワーキンググループ委員などの活動をされています。花井氏は講演の冒頭で、自死遺族の支援者の前で自死遺族の立場としてお話しする機会はあまりないと仰いました。お話は、自死以外の死別と自死との遺族感情の違いや、自死遺族の心情の違いを生む要素、自死念慮者への予防に関する遺族の心情はとても複雑な思いのようです。自死遺族の会や分かち合いは自死遺族の安心につながる役割があることや、会の運営の課題や限界もお話されました。また、自死への質問で、自死遺族と自死念慮者への対応が反することの矛盾も指摘されました。
今でも自死念慮者への啓発の中に潜んでいる自死遺族への配慮が足らない点をお聞きすると、「死にたい気持ちを持った人」への対応から「苦しみを支えること」への対応に転換することの必要を提言されました。私達の中にある自死への偏見についても改めて省みる必要があります。最後に宗教と自死についての話の中でこれまでの宗教の中で自死への否定(抑止)が強くその為に、自死された方、自死遺族の方への差別があることは反省しなければいけません。それでも自死遺族の方からの宗教への期待もお話いただき、僧侶として自死遺族の方への支援について学びをいただきました。

自死遺族とひとくくりにすることもできないそれぞれの立場がある中での支援は考える以上に、大変なことと思ってしまいます。それでも相手のことを気遣いながら、今の自分にできることをしていくことしかないと感じました。
※中川個人の感想です。

寺報に見る住職の10年の歩み 平成28年

寺報に見る住職の10年の歩み 平成28年
【寺報35号平成28年12月発行】
『お寺は何を伝える
 4月に若い僧侶の法話会の会場としてご縁をいただきました。緊張の面持ちで多くの方の前でご法話をされるのは初めての方もあり、その後の反省会では伝えたいことが十分伝わらなかったと残念がられている方もいました。法話会の後にご聴聞していただいた方々と、主催者の若い僧侶達がグループになり、日頃住職に聞けないことや、その方の思いをお聞かせいただく時間では充実した色んな話題が出て、ご聴聞いただきました方々には長時間であったにも関わらず最後までおつきあいしていただきましたこと感謝申し上げます。後日、お聴きくださった方に感想をお聞きすると、とても好意的で、若い方のお話しが聞けて、ご自身のお話しを聞いてもらえて良かったとおっしゃっていただきました。妙華寺から、親鸞聖人の「み教え」が伝わっているかお同行の皆様にお聞かせいただければと思っています。』

昨年(平成28年)の12月に発行しました寺報の文章です。平成18年に法苑院妙華寺の住職を拝命して10年間の寺報に、私(住職)のその時の思いを綴らせていただいています。お寺の役割が社会の中でどのように変わっていくのか予測することは難しいのですが、これまでのようにお寺がお同行の皆様や地域の皆様にとって安心できる場でありたいという願いと、阿弥陀様の「あなた」を必ず救うとという誓いをこれまで以上に伝わる場になるように精進していきたいと思っています。
8月も7月と同じくお盆月です。この2ヶ月間は本当に暑さと向き合いながら身体の疲れを残さないように考えていますが年々疲れが取れないと思うのは年のせいでしょうか。

住職の10年間を寺報を通して毎月一度振り返っていました。当たり前ですが、11年目が近づいてきました。時が早く過ぎるように思うことですがお寺のあり方について、お同行の皆様や地域の皆様と共有できるものが少しでも増えることを念願しています。
またこの夏が終わると9月のお彼岸の準備や年末に発行する予定の寺報の原稿に頭悩ます日々がやってきます。

8月の日曜学校

8月の日曜学校は、広島に原子爆弾が投下された6日でした。72年前の今日広島市の光景を地獄のように例えます。私達は、私の中に「地獄」の心を持っていることを自覚しながら生きなければ繰り返し起こってしまう出来事であると思います。
奈良国立博物館で開催されています『源信』展を通して真宗での源信和尚を紹介しました。

(恵心僧都)源信は天台宗に属する僧で、横川の恵心院に住した。末代の凡夫のために、穢土(えど)を厭離(えんり)して阿弥陀佛の浄土を欣求(ごんぐ)すべきことを教え、それをまとめたのが、『往生要集』である。その中心思想をどう見るかで、諸説があるが、法然は、第18願の他力称名念仏を往生のためのもっとも重要な行業として説いたと解釈している。七高僧の一人として、源信の功績とされるのは、報土(ほうど)と化土(けど)の別を明らかにしたことである。すなわち、自力信心の人は化土に生まれ、他力の信心によって念仏一つを修する人は報土に生まれる。それゆえ、他力信心を得て真実報土に往生するよう願えと教えたのである。この化土は、仏教一般の化土でなく、報土中の化土で、辺地(へんじ)とか疑城胎宮(ぎじょうたいぐ)とかいわれる世界である。源信は、こうして浄土門における正行(信)と雑行(疑)の優劣と、専修(念仏一行)と雑修(諸行並修)の得失を判定した。
『親鸞読み解き事典』から

源信(942-1017)大和国当麻生まれ、44歳の時に『往生要集』3巻を著す。あらゆる衆生のために穢土を厭離(おんり)して阿弥陀仏の浄土を欣求(ごんぐ)すべきことを勧めた。

第91回仏教文化講座+

 

第91回仏教文化講座+
仏教文化講座が今年で91回を迎えました。これまでは仏教文化講座以前は、「夏安居(げあんご)」と呼ばれて、高田派の僧侶が対象で、御影堂で期間ももっと長く開催されていたと聞いた覚えがあります。仏教文化講座になってからも、今のような快適な空間での開催ではなかったことを思いますと、今は暑い時期ですが暑さを感じず拝聴できることが大変有難いことであると改めて感じています。

今年も5日間とも参加はできませんでしたが、参加させていただいた時のお話しをお聞きしての感想を記載します。

1日目は、ご法主殿のご親講で、昨年の「明恵上人とその時代」の続きとして「明恵上人の思想と信仰」のお話でした。
親鸞聖人の同時代の僧侶で当時では親鸞聖人より、高山寺の明恵上人の方が名が通っていたと思われます。明恵上人は神護寺の密教僧であり、華厳宗の復興を担う一人であり、専修念仏の批判者であり、独自の禅思想の実践者で、戒律復興の先駆者という多くの面をもっていることで中世の仏教の全体を見直す手かがりとして明恵上人に学ぶことは大切であると仰られました。また、一途でひたむきな性格のようで、柔的な面として、仏眼仏母信仰や自然詠歌として現れ、剛的な面として山中蟄居や『催邪輪』の如く激しく孤髙な一面もあるようです。
私(住職)は、「鳥獣戯画」で有名な高山寺の僧であることと『催邪輪』の著者であることしか知りませんでしたので、当時の時代の仏教をどのように見ていくかを知り得た時間となりました。

2日目は、小山聡子氏の「悩める親鸞 まじないの時代のなかで 」との講題でのお話でした。専門は、中世史学研究者で、親鸞聖人が生きた時代(平安時代後期から鎌倉時代)を改めて考察しながら、法然聖人・親鸞聖人の教えと、ご本人や門弟達の生活の中での信仰をお教えいただきました。当時の病気治療に焦点をあて、呪術について当時描かれた絵巻や絵画を用いて説明され、当時の人々が「もののけ」をどのようにとらえられていたかよくわかりました。また、法然聖人や親鸞聖人の教えが「易行」ととらえられている面と、そうではなく「難(なん=むつかしい)」ことであることの認識の違いが、聖人にも門弟にもあったのではないか。今、宗祖としての親鸞聖人のイメージをもう一度人間親鸞としてとらえることが大切ではないかと提言されました。

4日目は、ケイネス タナカ氏の「今後の真宗はどうあるべきか グローバル視点より」と題して今後の真宗寺院の方向をアメリカ仏教を俯瞰しながらのお話でした。
アメリカにおける仏教は、日本仏教だけでなく、東南アジアの仏教、チベット仏教が存在しているとのことです。アメリカの宗教人口では以前に比べて仏教徒が増加して人口の1パーセント強の350万人ほどいるようです。仏教徒と断言はできなせんが、ナイトスタンド・ブディストや仏教に強く影響された人々を含めるとアメリカの人口の10パーセントにもなると言われているそうです。この現状から日本の仏教(真宗)が学ぶ点を5つのグローバル視点から示されました。講師の親しみやすい話しぶりで和やかに時間が過ぎました。現代は、私達の生活も行動もグローバル化しています。その視点で真宗寺院の強みと、弱い点を確認でき、これからの寺院運営を考えるヒントになりそうです。

ちょうどこの日の夜、NHKテレビで「お寺が消えていく 困窮にあえぐ過疎地の僧侶たち」という番組が放送されました。私(住職)の所属する組でもお寺の合併・解散があります他人事ではありません。これからのお寺の未来をどのようにデザインしていけば良いのか、お同行の皆様と考えていきたいと改めて感じています。

宝物館では「夢記2」として、六角堂に参籠した時の夢の「親鸞夢記」、「親鸞聖人 三夢記」や、専修寺所蔵の慈円書状、関東へ向かわれる時の夢、「康元2歳丁巳、2月9日の夜、寅時夢告にいわく」の和讃など高田本山に伝わる「夢記」の特別展観がありました。

※中川個人の感想です。仏教文化講座のそれぞれの内容の概略は、主幹の栗原先生が、後日宗報に掲載されます。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第15回】続・非僧非俗のくらし
聖人の越後での流罪人としてのくらしは、現代人の私たちにとっては想像を絶するものであったと思われます。
恵信尼さまというよき伴侶があったとはいえ、4人の子たちを養育せねばなりません。そのためには、流罪の身でありながら、普通の家庭と同じように、それなりの生計を立てねばなりません。食事の用意をしなくてはなりません。衣類もその時その時に応じて、必要だったでしょうし、また、住まいの環境も整えなくてはなりませんでした。
時がたつにつれて監視の目も緩やかになり、国府の草庵にとどまってばかりおらず、近辺の普通の人たちとの交際もあったようです。これらの人の中には、天災や飢饉で飢える人も多かったでしょう。村から追い出されたり逃げ出したものもいたでしょう。あるいは、加持祈祷をすることが宗教であると思いこんでいる人も多くいたことでしょう。
このような普通の人と同じ視座で、人間とは何か、世間とは何か、苦とは何か、そして救いとは何かという事を語り合われたのです。
聖人がおのれを愚禿と言い、非僧非俗と言われた意味が、わかります。僧でもない俗人でもないということは、俗人でもあり、僧でもあるという意味なのです。念仏の教えがいよいよ真実(まこと)の教であると領解し、あらねばならぬという信心が固まっていった流罪の時代でありました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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