お同行様から

お同行様から
横浜にいらっしゃいますお同行様からお便りがありました。昨年出版されましたご著書の紹介が掲載されました新聞記事をお送り頂きました。ご著書は昨年お贈りいただいて拝読をいたしましたが、音楽について知識が無い私(住職)に作者が伝える音楽を通して語りたかったことを十分読み切れたかと思うと恥ずかしい限りです。題名にもなってます「笛」の音を通しての物語が外国の町並みを舞台にしたスケールの大きな小説と感じていました。
 お送りいただきました新聞に掲載されていました、ご著書の紹介文を記載します。
『惑いの笛 Sous le ciel de Basque』 阿津見 馨著  小学館スクウェア
舞台は、ラヴェル誕生の地である南フランスの港町。日本人Kを惹き付けたのは、憂いのある一人の紳士。彼には秘められた過去があった。笛の音の魔力に取りつかれた男の人生の変転がミステリアスに描かれている。バリトン歌手・スぜーとの触れ合いほか、バスク地方の風情に触れた体験を綴り込みながら、情感に富んだ世界が展開されている。音楽評論家・家里和夫が記した初の小説。
 【平成28年11尽き23日 産経新聞】
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 作者の名前の「馨(けい)」は、お寺で使う「馨」からつけられたこと。「馨」の説明はご著書でもされていますが、これまで音楽に携わってこられた方が「馨」の音を大切にされていますこと大変うれしく思っています。
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『惑いの笛 Sous le ciel de Basque』 阿津見 馨著  小学館スクウェアにつきましては、お寺のHPの2016-06-13のブログでもご紹介させていただいています。
妙華寺のお同行様の書かれた『惑わしの笛』(安津見磐著・小学館スクウェア)を昨年お贈りいただきました。(この時のブログの)本編に関係はありませんが、ペンネームに「磐」と名告られていて、音楽評論家でもあり、音を奏でるものに大変な思い入れがある方で、以前親御様の年回の時に、本堂の磐の写真を撮りたいとおっしゃられた時の写真が、「あとがき」の部分に掲載されています。
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秋のグリーフケア公開講座

春のグリーケア公開講座に続いて、秋のグリーフケア公開講座にも参加することができました。全てに参加はできませんでしたが、聴講して、毎回新しい気づきや忘れていたことを思い出させていただく学びの時間に感謝しています。聴講して個人の感想ですが記載させていただきます。
2016-09-27 秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「悲嘆力~悲嘆を乗り越える力~」 高木慶子
春に続いて、秋のグリーフケア公開講座が始まりました。今回も第1回目の講座は上智大学グリーフケア研究所 特任所長の高木慶子様のお話しで「悲嘆力~悲嘆を乗り越える力~」との講題でお話しいただきました。悲嘆に寄り添うこと(ケア)側の難しさとして、悲嘆された方が、悲嘆を周囲に知らせることにもその方に「知らせる力」がないとできないこともあるようです。悲嘆からの回復として時間の存在もあります。また自らの悲しみを恵みとして気づくことになるのも悲嘆を乗り越えていく力になると話されました。真珠がアコヤ貝の中で育つ過程から悲嘆を乗り越えていく力が私たち一人一人の中にもあることだと紹介されました。また、高木先生の死生観を詩で表され大いなる存在に気づくことで、私が生かされていることに気づき、悲嘆を乗り越えていく力が生まれてくることを強調されました。また「人生」という言葉をもう一度考える機会になりました。高木先生のご講演の最後は全員で歌を歌う時間があります。わずかな時間ですがこの場にいる全員が一緒に歌うことで一体感が生まれるように感じます。
※中川個人の感想です。
2016-10-04 秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「心を病むこどもたち」 水谷修
「夜回り」と聞くと消防団の「火の用心」を思うことですが、水谷先生が子ども達が夜の町にいることの危険と、もしもの時は頼ってくる場(人)がいることを周知するためパトロールを初めて夜の世界で25年間がんばっている水谷修先生を、「夜回り先生」と親しみこめて呼ばれるようになりました。
先生の友人との話で、夜間学校の教師になり「夜回り先生」になったようです。
夜、外にいる子ども達は家庭に居場所が無い為、外にいるようですが、夜外に外に出ず家の中でリストカットする子ども達がいることに気づき、「夜回り先生」の活動と共にリストカットをする子ども達への活動も今も続いているようです。外に出ない引きこもりの子ども達には、その子の引きこもっている場所に行き、一緒にいることから始めるそうです。また、リストカットをするに至る背景を一緒に考えなければ、子どもの心が開くことはできないようです。これまでの経験から、解決に至る方法として4つ示されました。①理論に基づいた臨床心理学がありますが、この方法は前例がないと限界があるようです。②科学に基づいた精神医療も日本の場合、薬だけの治療で心と体の治療としては限界があるようです。③非論理的であるが、体育系の水谷先生らしい、ストレスは心身のアンバランスで心が疲れている状態で発生するので、身体も疲れるようにすると夜も眠ることができストレスが少なくなるようであると経験を語られました。④私たち人間は今も神聖なもの(宗教)を「畏怖」として捉えているので、その神聖な宗教空間を居場所の無い子供達の居場所として提供できる可能性を実感されているようです。
またお話しの冒頭に、「美しいものをたくさん見てください」とおっしゃったのは、子ども達だけでなく、私たち大人への呼びかけでもあり、「美しいものを見る」と言うことは心に余裕を持つことと感じました。名もない花であってもちゃんと見ると「美しさ」があることと私(住職)は受け取りました。水谷先生は、とても語ることが多くて私(住職)の力では全てをまとめるのができないのですが、そこには、水谷先生が、多くの心を病んでいる子ども達を見てきて多くの子ども達が立ち上がっていった以上に、先生にも何も出来なかった子ども達の姿が今も脳裏から離れないから1つでも多くの事を私たちにに伝えようとされているからだと思いました。
※中川個人の感想です。
 2016-10-25 秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「妻として 女優として 夫・大島渚と過ごした日々」小山明子
女優の小山明子さんが夫の大島渚さんの介護を通して感じた心の動きをお聞かせくださいました。結婚生活50年の中で病気で倒れられてから17年間のことを語られました。大島渚さんは監督として、小山明子さんは女優として活躍されて、またご子息二人の結婚もあり幸せの状態の時に大島渚さんが倒れられお世話をすることになった時は「どうして私が」とショックを受けられうつ病になられたそうです。4年間のうつ病の中で、自分が元気にならないと向き合えないことを感じたときから回復に向かわれたそうです。大島渚さんの病気のお世話といっても病床ですることは何も無く一緒にいるだけの時間に読書をされて、読後の良かった言葉をノートに書き始めてことが自分を変えていくことになったようです。大島渚さんの病気も徐々に良くなっていくことや、再び病気が悪くなったりする中で、自分だけの思いを手放すことや、どうしてこうなるかという思いを受け入れていくことを学んだそうです。介護の中ではイヤなことと感じることに楽しい気持ちを持たないと続かないことに気づかされたと語られました。また、大島渚さんがなくなられてから、待っていてくれる人がいない人生を感じているそうです。「自分が幸せの中にいる時は幸せは見えない」と言う言葉に小山明子さんと大島渚さんとの生活が充実していたことを感じました。
※中川個人の感想です。
2016-11-15    秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「夢みる心に宿るもの」 永田萌
イラストレーターの永田萌さんのお話でした。永田萌さんは兵庫県加西市出身で、阪神大震災の時は東京で個展が始まる時でご本人は東京にいらっしゃったそうです。地震のことを知り家族が心配で戻られたそうです。被災した神戸の光景を見ながら、その時永田さんは自分がイラストを描いていて良いのか?もっと役立つことをしないといけないのでと悩まれて、イラストが描けなくなったそうです。そのような状況の永田さんに、永田さんのイラストが大好きな被災された方が友人から永田さんの描かれたイラスト入りのポストカード送られイラストを見たら、悲しみにくれていた心がぱっと明るくなったことを永田さんに話されたことでイラストを描いてもよいのだと思われたそうです。その後お母様を病気で失う前に、病室でお母様から「60歳になったらあなたに本業以外で求められることがあれば引き受けなさい」と言われたそうです。その時の永田さんには遠い未来(20年後)のことのようでその時は分からなかったそうですが今そうなっている(本業以外で求められたことをしている)自分で、母の言っていたことが「年をとらないと分からないこと」と思われたそうです。ご自身の喪失体験から得たことをご自身のイラストを示していただきながらお話しされました。
最初にイラストについて定義として、イラストとは「説明する」・「証明する」・「図解する」ことで、「目に見えないものを確かに存在するものとして具現化する」ことだそうです。例えば、「愛」・「夢」・「希望」を描くこと。また古くは天国や地獄などの宗教画、偉人の伝記、地図も入るようです。イラストを描くにあたり必要な資質として、表現力・理解力・想像力・発想力・幅広い知識・人間に対する好奇心・共感する力・愛情を挙げられました。また、イラストは、依頼者があって制作がスタートするので、アートととは違うそうです。また、伝達する媒体にあった表現をすることも依頼者が主体であることと思いました。人間の感情を描くことは、愛・夢・希望・幸せだけでなく、いかりや憎悪・絶望も描くことがあるようです。人間の感情を超えるものとして、慈愛・なぐさめと永田さんは表現したイラストが、私たちの悲しみを生き抜く力としてあることがわかりイラストを今も描かれているそうです。人が人に寄り添うようにイラストが、その人にさりげなく邪魔にならないようにあることはグリーフケアの1つとしてイラストの力を感じました。
 今、永田さんは京都市こどもみらい館の館長をされています。こども達のグリーフについて現状は大人以上に大変な状況であるようです。悲しみの中にある私はどうしてもうつむきがちになりがちで一点しか見ることができないでいます。でもいつか少し視点が違う向きに向くことができれば違う景色を見ることになるのでその時にイラストが少しでもお役にたてればとおっしゃられたことが印象的でした。
※中川個人の感想です。
2016-11-22 秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「臨床で考える悲嘆」 徳永進
医師でありノンフィクション作家の徳永進先生のお話。医師として末期の患者様のお世話をしながらそのご家族と患者の関係を語られました。一人の患者さんがなくなられた時その家族や関係者のグリーフはそれぞれ違うのでグリーフケアのあり方は何が正解か分からないこと。言葉には表層言語と深層言語があり、ともすれば末期の患者やそのご家族に医師として前もって考えていた言葉(形式的な言葉)を使いながら接しようとするのだがそれでは患者や家族には伝わらない。患者や家族からの思わず出る本音の言葉にその人の内実が出ている場面に何度も出合われたそうです。
大切な方をなくされた家族(遺族)の言葉を中心に、死について語られました。「死」について考えたり話す時どうしても身構えたり神聖に考えることもありますが、「死」ももっと身構えずに当たり前として捉えることの大切さを強調されました。末期の患者さんで死が近づいているのだけど、患者さんには歯が痛いことのほうが切実な問題として医師に訴えてこられたこともあったそうです。先生の経営されている診療所(末期患者の緩和ケア)では、本来禁止される飲酒や喫煙もある程度許されているようで、飲酒や喫煙をしたいが為、入所を希望される患者さんもいらっしゃるそうです。また末期の患者さんの緩和ケアは癌患者と規定されているようですが癌患者以外の難病(HIVを除く)や死に直面される患者さんに対する緩和ケアが行われていないことも知りました。人間の生まれてから死に至る姿の全てが受け入れられることができれば良いのですが私たちは立派な時の姿しか認めない心をもっていると晩年の介護などにも影響がでるようです。死を迎える姿は失禁があったり、よだれがたれていたり目やにだらけだったり、譫妄(せんもう)や幻聴があったりしながら滅びていく姿でありますがそれは私もその姿で滅びていくことで何ら変わらない姿であることを共有することが「やさしさ」にも通じていくようです。悲嘆を和らげるものとして、ご本人が笑うことや誇りを持てるかまた、帰属する場があるかなど、本音の言葉(深層言語)をお聞かせながらのお話しは心打つものでした。また、講演の途中で患者様のお一人が亡くなられた連絡が携帯電話にかかってくる場面があり現役で多くの末期の患者さんに向き合っていられることもわかりました。
※中川個人の感想です。
 2016-12-06 秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「佛教に聞く 悲しみと喜び」 大谷光真
グリーフケア公開講座の主催者の上智大学グリーフケア研究所の所長であります島薗進氏のお力添えで西本願寺の前御門首様のお話をお聞かせいただく機会を得たことをうれしく思いました。また、お話しの後で、龍谷大学大学院の2名の方の質問にお答えいただく時間もあり有意義にお聞かせいただきました。
前御門首様は、グリーフについて「明日は我が身」として受けとめられて、佛教(お釈迦様の教え)から聞くにあたっても、佛教を内側から捉えることだけでなく外側からも捉えることの必要性もあるのではと最初におっしゃられ、佛教だけでなくキリスト教やイスラム教など宗教の中にある「悲しみを受けとめる力」についての可能性を指摘されたのだと中川は感じました。
この度のお話しは、「佛教に聞く」こととして、①亡くなった人の行方、私の行き先を、智慧(超越)の面からと慈悲(現実)の面から、②遺族、悲嘆者の面から、③第三者 親族、友人、カウンセラーの面からお話しいただき、死について悲しみの側面と、信心により喜びとして受け入れていく側面についても、親鸞聖人のご消息や、お釈迦様のお言葉、お釈迦様のお弟子さんの偈、多くの佛教の祖師からのお言葉からお聞かせいただきました。
中川個人としては、③第三者 親族、友人、カウンセラーの時に紹介されました、「ボランティアのひとはね、『忘れない』というのよ、私たちは違うの。忘れられないの」【藤丸智雄『ボランティア僧侶』P32】の言葉もう一度考えたいと思いました。
前御門首様の自然体でお話しされるお姿にとても感銘を受けました。
※中川個人の感想です。
2016-12-13 秋のグリーフケア公開講座  悲しみを生き抜く力
「悲しみに寄りそう」 柏木哲夫
秋のグリーフケア公開講座の最後は、淀川キリスト教病院の理事長の柏木哲夫さんのお話でした。日本の医療現場で「ホスピス」を最初に実践された方でこれまで2,500名ほどの看取りをされてこられたそうです。「グリーフ」の言葉の語源にはラテン語で「重い」の意味があることを知りました。「心は悲しみで重くなった」と気持ちの重さを表しているそうです。
「悲嘆(グリーフ)」のプロセスは人によって違うことは当然ですが、病気での死別の「悲嘆」では、予期悲嘆で悲嘆の準備があるのと予期悲嘆が無く悲嘆の準備が無い場合ではやはり違うそうです。悲嘆を必然として受け入れていく中でも身体や心に影響しますが、通常の悲嘆と病的な悲嘆との違いは、日常生活に支障があるか否かを注意深く見なければいけないようです。死別の悲嘆の中にいらっしゃる遺族にかけてはいけないこと、これまでもグリーフケアの話の中でお聞きしていたことですが、改めて自分の話す言葉の中で考えさせられ、言葉の重みも感じました。また、寄りそうことと支えることの違いを、写真でお示しくださったり、人間の中にある「死んでいく力」のことを考える機会もいただきした。柏木先生が日頃思われているホスピスに携わる人の人間力の項目の中で、患者様のお話は感慨深いものがありました。
先生のホスピスの現場からのお話しは、グリーフとグリーフケアについて、とても大切なものに気付かされたように感じました。柏木先生のお話しが終わって高木先生が、「今日は死別された遺族の方に対するお話しでしたが、死別していく患者様のお話もお聞きしたかった」とおっしゃられ、聴講していた多くの方の思いを代返していただきました。
※中川個人の感想です。
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生活の中の仏教のことば

領解(りょうげ)
一般には、「りょうかい」と読み「了解」と書くのが普通です。仏教では「りょうげ」と読みます。
ほとけの教えを知識として理解するだけでなく、心から『その通り』と納得するさまが領解(りょうげ)です。
真宗では「信心」と同意語として用いられています。

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27組の報恩講

27組の報恩講
今年も27組内の報恩講が始まりました。10月30日に戸木(へき)の満誓寺様からです。今回は本堂前にある梵鐘を拝見しました。満誓寺様の梵鐘も戦時中に金属供出されたようです。戦後戻ってきましたが三カ所に穴が空いていました。音には影響がないようですので良かったと思います。

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11月に入り、5日に桃園(ももぞの)の光蓮寺様です。昨年は所用でお伺いできませんでしたので2年ぶりでした。代務住職になり庫裡の一部がなくなり駐車場になっていました。お寺の日常の管理はお同行様がされています。行き届いた管理で境内もきれいで、報恩講の法中への接待もお同行様一丸となってされていました。お寺の本当の姿を見せていただいたように思いました。

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20日に戸木の西向寺様でした。例年にない暖かさでした。山門をくぐり本堂の正面にあたる場所に四季桜が満開でした。
ご住職様がお盆の後、右足の炎症で2ヶ月ほど入院されて足に負担がかからないように、法中の私たちも椅子でお勤めをさせていただきました。今後は高齢などで足への負担を考えての出仕方法も考えなければならない時のようです。

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23日は一転肌寒い勤労感謝の日、小戸木(こべき)の西林寺様の報恩講。妙華寺からおよそ400m南にあるお寺です。大間に置かれた大型のディスプレイに報恩講の差定が表示してありとても見やすく思いました。お同行様のことを大切に思われている心が伝わってきます。組内法中のお勤めの後、お同行様だけでお勤めもされることは時間をかけてお育ていただいたことと思います。

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11月最後の日曜日は小造(こつくり)の蓮性寺様でした。あいにくの雨でしたがその分落ち着いた風情でした。蓮性寺様も椅子でのお勤めでした。足が痛くなることから開放されます。内陣のお勤めでは、椅子と正座では目線が違うのでちょっと新鮮です。また鐘楼堂は山門の左に位置しています。蓮性寺様の梵鐘も戦時中に金属供出されたようです。戦後戻ってきたそうですが、鐘楼はとても良い状態と見受けられました。江戸後期から明治にかけて愛知県で造られた梵鐘だそうです。

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今年から12月の第1日曜日に妙華寺の報恩講をお勤めさせていただきました。例年より風もなく幔幕や旗が風に煽られることがありませんでしたし、銀杏の葉もまだまだきれいな黄色で彩られています。次の日に片付けていましたら、内陣の荘厳で灯籠を飾る灯心飾りを出すのを忘れていて反省することです。

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27組の最後の報恩講は、野村の浄徳寺様です。毎年、浄徳寺様では副住職様や衆徒様も出勤されますので、組内の法中も含め、賑々しいお勤めと感じています。報恩講が終わるとやっと年末年始のことをしっかり準備できる時間がとれます。

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ひとくち法話

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本寺と本山(ほんじとほんざん)
わが高田派には、他派にはない特別な歴史があります。それが、本寺と本山と言うふたつの専修寺(せんじゅじ)です。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)が流罪(るざい)を解かれて関東に行かれたのは42歳(1214)でした。以後60歳を越えて京都に帰られるまでの約20年間を関東で布教活動をされました。中でも53歳の時の夢告によって本寺(栃木県真岡市高田)を建立し、一光三尊仏を信州の善光寺からお迎えしてからは、ここを念佛弘通(ねんぶつぐつう)の拠点として後半の10年間をすごされました。聖人が帰洛されてからは、第2世真仏(しんぶつ)上人、第3世顕智(けんち)上人が中心となって関東で最大と言われる高田門徒を継承されたのでありました。
第10世の真慧上人は、関東だけでなく東海北陸に教線を拡げられました。特に伊勢の念仏者たちの懇請(こんせい)にひかれて、ここ津市一身田(いしんでん)に大伽藍(だいがらん)を建てられました。それが現在の本山です。
その後1526年に本寺の専修寺が兵火のために焼失したこともあって、第12世堯慧上人以降は一身田に住まわれて今日にいたっています。そのため、現在では栃木県の専修寺を本寺と、一身田の専修寺を本山と称して区別しています。
本山の御影堂(みえいどう)は木造の建造物にしては京都の東西本願寺に匹敵し、全国でも五指に入る規模といわれています。大昔のこと、こんな伊勢の地にこれほどの大伽藍が建立されたことは、大きな驚きです。お念仏の教えこそが、ただひとつの浄土への道であるというわれらの祖先の深い信心のあかしでありましょう。 ※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

 

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寺報に見る住職の10年の歩み 平成20年

寺報に見る住職の10年の歩み 平成20年
【寺報27号平成20年12月発行】
『親鸞聖人750年御遠忌を前に
親鸞聖人は今から830余年前の承安3年(1173)に生まれ、弘長2年(1262)90歳でご往生されました。高田本山では「お七夜さん」と親しみをこめて表現される報恩講とは、親鸞聖人のご命日をご縁として、聖人にお礼申し上げる法会です。法苑院では、毎年12月5日に報恩講を執り行っていますが、50年ごとに御遠忌として盛大に執り行います。高田本山では平成24年に親鸞聖人の750回御遠忌を厳修いたします。当院ではそれに先立ち平成23年に執り行う予定です。前回の700回御遠忌は昭和37年4月に執り行っています。私(住職は)当時6歳でした。多くの稚児の一人として参詣したことしか記憶にありませんが、多くのお同行の皆様方のご奉仕で盛大に執り行われたと聞いています。まだ先のことではありますが、皆様方のお智慧を借りながら、750年御遠忌法会も意義ある法会にしたいと思います』
 平成12年から始まっていました高田本山専修寺御影堂平成大修理もこの年の3月末で完成し5月に高田本山専修寺御影堂平成大修理事務局も閉局しましたので、私(住職)も6月から自坊に一日中いることになりお寺の法務以外もしっかりと取り組みたいと考えていました。
当時はお同行の皆様にはお伝えしていませんでしたが、この年の正月に前住職に癌が見つかりました。手術は無理とのことで抗がん剤治療が始まりました。この年の8月のお盆勤めから私(住職)だけでお勤めすることになりました。前住職の体力が弱り暑い中のお勤めが難しくなり、急遽お勤めの日を変更させていただいたお同行の皆様にはご迷惑をかけましたこと改めてお詫び申し上げます。高齢と病気で弱っていく前住職でしたが、幸い痛みはあまり感じないようで、平素のお寺勤めや彼岸会・千部会・報恩講へは出仕していただいていました。またお寺の見えない部分ですがこれまでどおり境内の掃除などは毎日早朝にしていただき頭が下がる思いでした。
また、平成23年に御遠忌法会の予定としましたのは、本堂の耐震工事を考えてのことで、お同行様のご親戚に金剛組の棟梁がいらっしゃいましたのでその方を通して本堂の調査・工事見積もりなどの提示が夏にあり、総代様と工事見積額について話をしていました。前住職も病気でありましたが御遠忌のことは楽しみにしており、その前年の本堂の修理についても総代様と共に私(住職)を支えていただきました。
12月は毎年自坊の報恩講で今年から第1日曜日に変更をいたしました。報恩講が終わらないと来年への準備がてきません。年末年始の準備も毎年でありますが忘れていることもあり昨年の記録を見ながらになります。
※寺報に見る住職の10年の歩みは、毎月10日に掲載いたします。
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寺報35号平成28年12月発行の訂正

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寺報35号平成28年12月発行の訂正
先日来お同行の皆様のお手元に配布させていただきました寺報35号で訂正がございます。
①P3の上段の「行事報告」欄 平成30年の婦人会総会後の講演予定のご講師のルビ(えいづき)とありますが(えいげつ)に訂正をお願いします。
②P4の上段の「本山行事」の欄 平成29年の該当者は、昭和2年(1927)生まれの方とありますが、昭和3年(1928)生まれの方に訂正をお願いします。
お同行の皆様に配布する寺報などの作成に当たり原稿の校正をしていますが、見落としていました。今後更に注意深く校正にのぞんでいきます。

四季の花

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四季の花 写真は、12月3日のもので、例年ですと12月の報恩講前に落葉する銀杏やドウダンツツジの1本が今年はまだきれいな紅葉をしています(銀杏は12月8日には9分ほど落葉しました)

 

報恩講をお勤めしました

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妙華寺の報恩講を組内の法中様とお勤めしました。今年から12月第1日曜日に変更になりました。例年ですが前日の午後からお非時の準備に婦人会の方がご奉仕されています。必要なものを覚えているつもりですが買い忘れたりするものもありご迷惑をおかけしています。今年は初めてご奉仕をしていただく方も少し増えて大変うれしく思うのと、大変ではありますが、これからも続けられる体制を調えたいと思っています。当日は雨も心配されましたがあまり寒くなく風も穏やかで11時からお非時を多くの方に召し上がって頂きました。報恩講のお非時がいつから続いているのかはっきりはしていませんが、母の話では、母(昭和6年生まれ)が物覚えがある頃からあったようで、母が小学校の時は、通っていた小学校の生徒がお非時をいただきにきたようです。(戦前は学校給食がなかったので楽しみであったようです)昭和20年前後(何年間かは今は思い出せないようです)はお非時をお出しする余裕はなかったそうですが婦人会の方々のお力添えで今まで続いていることに大変敬意を称しています。食材はその時のお同行様が作られた野菜を中心に用意されたと思われます。今のお非時の飛竜頭・麹味噌・ご飯は、高田本山のお非時もその形ですので、日本の昔のハレの食事の形だと思われます。それに大根とニンジンのなます(酢の物)や里芋の煮っ転がしや白菜の漬け物などお同行様が作られた食材を持ち寄っていただいています。お非時の場所は以前は庫裡の三間を使用していましたその頃は、報恩講の前に大掃除と称して庫裡の畳なども境内で叩いてきれいにしていました。現在の会場の妙華寺会館も今回からテーブル席になり足腰のご負担を少し軽減させていただけたと思います。
お勤めは報恩講らしさを考えて、本山の初夜のお勤めをしています。今年は式文の三段を拝読させていただきました。お戸帳を外しての親鸞聖人のお姿は報恩講でしか拝むことができないことです。ご法話は、正太寺の大河戸悟道師に初めてお願いしました。私(住職)がお非時をいただいている時に総代様が昭和20年代に大河戸○○師(住職が聞き忘れました)のご法話をご聴聞されたそうで今回の布教使様と同じ名字ですがご関係はと尋ねられました。ご法話の後、控室で大河戸様にお尋ねしましたら正太寺の前々住職(祖父)とのことで布教使として全国を回られていたそうです。また大河戸様には「妙華寺」のハンコいただきました。お寺からの郵便物に使用したいと思います。ご聴聞されました総代様は、「今日のご講師は板書の使い方がとても良かった。お話しも懐かしい気持ちになりました」をおっしゃられお帰りになりました。
ご法話の後、ご聴聞された方々に、親鸞聖人像を内拝していただき、余間の絵伝も近くで見て頂きお帰りしていただきましたが、準備不足で、それぞれの場所で説明ができませんでしたので来年の課題になりました。
行事が終わり次の日にお供えを下げて、小分けしながらお手伝いしていただいた方々へお礼(後礼)とおすそ分けをさせていただいています。それが済み今年も報恩講を無事お勤めさせていただいたと喜んでいます。
また、お寺の行事の時は、ご聴聞されるお同行の皆様と共に、行事のお手伝いをしていただく方々を頼りにしています。行事の30分前に梵鐘を鳴らして案内をしていただきます。お堂にお入りいただいた所の帳場ではお同行の皆様方が仏様へお供えいただきましたご懇志を各行事ごとに懇志帳に全て記帳していただいております会計担当のお同行様がいらっしゃいます。行事が終わりますと、仏旗や幔幕・案内看板・帳場の片付けなど手際よくしていただきます。報恩講では既に紹介しましたが婦人会の皆様のお力でお非時のご奉仕をしていただいています。皆様のご懇志は、妙華寺にお預かりさせていただき、今後の妙華寺の護持、阿弥陀仏の「み教え」を伝える一助にさせていただいています。
お寺の行事は毎年同じ形であります。果たして行事が同じ形で次の世代に伝わるのか私(住職)には想像がつきません。私が知り得る中でも終了した行事もありますし、復活した行事もあります。その時代の中でお寺とはどのような存在なのか、お同行様が何をお寺に求めているのか。お寺としてできることとできないこといろんなことを配慮しながら次の世代のことも考えますが、今できることをしていくしかないと思っています。
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恩徳讃

 今年最後の日曜学校は報恩講の朝でした。参加者のご都合を考慮しなくて申し訳なく来年は別の日曜日を考えたいと思います。
今回は、和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』 常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』 川瀬和敬著より紹介します。「正像末法和讃」の58首
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし

阿弥陀仏が大悲心をもって我等を救い給う恩徳は、わが身を粉にしても報じ奉らねばならぬ。我等を弥陀の本願まで導き給う祖師の恩徳も、わが骨を砕いても謝しまつらねばならぬ。
※「くだきても」の「も」は、事の重大甚大なことを示す。「までも」「さえも」というに近く、言外にそれでもまだ足りぬ気持ちを表す。「恩徳も」の「も」は、列挙する意。
※師主は、釈尊を始めとして七高僧を指す。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
 この一首は、「恩徳を讃えた和讃」ということで、「恩徳讃」と呼ばれております。ある意味では、和讃の代表とあがめられております。これによって、真宗教団というものが、教主並びに教法につかえまつる奉仕の教団たるべく、真宗教団設立の根源をなす一首として仰がれております。58首のなかで、3首だけ、聖人の和讃としては異色であってわれわれのうける感じがちがうその1つです。それは、第35首、第36首、「無明長夜の燈炬なり」「願力無窮にましませば」この2首を拝読しますときに詳しく述べたのでありますが、この2首と只今の1首が異色です。長い間、真宗の教えが苦悩する民衆のなかに、大きな力をもって人びとの心に訴えてまいりましたのは、真宗のお説教でありますが、その説教の讃題として今のも加えて多く用いられたのであります。この3首は、聖人の兄弟子であられる聖覚法印の言葉、殆どそのままなのです。聖人の1つの特色というものは、伝統を重んずるということです。善導から法然へ、法然からわが身へと。かりそめにも自発的にこういうことを思いついたということは語られない。みな善導の言葉、法然の言葉をもって、自己の信心を語っていかれる。だから非常に高鳴っている感情を、自分の身体から吹き出すような気持ちでも、自分の言葉でなく、あるいは先輩の聖覚法印の言葉を用いられる。こういうところが厳しく守られている。と同時に伝統といいますと人のいった言葉にだけついていくように聞こえますが、そうではない。先輩の言葉をいただきながら、その内容は先輩よりもっと充実している。こういうところが、聖人の伝統を重んずると同時に新しい創造性のあるところです。法然上人寂後の法要の際の「聖覚法印表白」(専修寺に聖人の書写本を蔵する)に只今の恩徳讃のところがでてきます。
「つらつら教授の恩沢を思うに、まことに弥陀悲願と等しきものか。骨を粉にしてこれを報ずべし。身を砕きてもこれを謝すべし。」
これを聖人は、京都へお帰りになってご覧になったものと思われます。「骨を粉にしてこれを報ずべし。身を砕きてこれを謝すべし。」「骨」と「身」が逆になっておりますが、大体そのままおうたいになっております。この言葉にはもう一つもとがあるのです。そのもとを2つとり上げて申します。善導大師の『法事讃』を拝見いたしますと「砕身慚謝(さいしんざんしや)」、「身を砕いて、釈迦の恩を慚謝する」。「慚謝」というのは、恩をいただきながらその恩を充分生かしていないとあやまる。「身を砕く」というのは、その尊いお心をいただきますと、私のつまらない心のあり方、あさましい私の我執というものが砕けてまいります。「慚」というのは、はずかしい。「謝」というのは、頭が下がることです。更に同じく善導の『観念法門』のなかに、「粉骨砕身・報謝仏恩」と出ております。この一首の和讃が詠いだされますについては、善導にそのもとがあり、直接には聖覚法印の表白文があるわけです。これだけの背景があるのですから、われわれに重味が感ぜられるのは当然なわけです。
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】
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