現代と仏法を考える集い『寺院崩壊?パートⅡ』

現代と仏法を考える集い
高田本山の教学院主催の「現代と仏法を考える集い」は、昨年に続き『寺院崩壊?パートⅡ』として今年は、「寺院崩壊」を「真宗と習俗」から見つめることでした。昭和63年の真宗連合学会の大会の時のシンポジウムの一部を映像で拝見してから意見を発表する時間でした。信楽峻麿師の司会で大村英照師、伊勢谷功師、池田勇諦師がパネラーでした。映像の中の皆さんはとても若いお姿でした。聴衆の多くは高田派の僧侶でしたが、お寺のお同行の方、高田本山に親しみを持たれている方、他派の僧侶もいらっしゃりいろんな意見をお聞きできました。私が感じたのは、「真宗と習俗」はこれまでもそうですが、これからも永遠のテーマなんだと思います。親鸞聖人の選択(せんじゃく)は命がけの選び(おまかせ)であり、私(住職)の感じている中途半端な選びではありません。これからも考えていかないといけないテーマと思っています。「寺院崩壊」とあわせて考えると、お同行や地域の方々との関係性を、私達の内にある習俗に向き合い真宗寺院としてもう一度見直すことと、お寺の魅力と僧侶の魅力(資質)を高めなければいけないと感じています。


「真宗と習俗」の思い出としては、昭和55年の先々代(祖父)の葬儀の日、組内のご住職様にお勤めしていただきます時に、お一人の老僧が、「おめでとう」と仰り祝儀袋でお香典をお渡しいただきましたお姿が奇異と感じられない自然体であったことです。私(住職)には初めてのことでした(その後も経験していません)私(住職)は、「往生の素懐をとげました」と葬儀の後に挨拶しますが、今もご往生されました方のご遺族に、「お寂しいことです」と申して、仏事の袋で香典をお渡ししています。お寺からのお供物に、祝儀と仏事の「のし」を使い分けています。「常識」と言われることにとらわれている自分があります。あの老僧のようにできるかと言うと未だできない自分がいます。