差別

「差別」
お同行様と、家族の介護の話から、私の中に潜む「心の中にある差別」について考える機会を与えていただきました。私が生活する地域のコミュニティの中で、とっても曖昧な普通であることから、はみ出した部分が、他者と違う「個性的」と呼ばれる場合と「差別」される場合の線引きはどこにあるのだろうか。一人一人の違いを認める多様な社会と差別する社会について短時間の中で深く話すことはできませんでした。生活の中で「差別」する側とされる側が混在し、自らも「差別」される側になり、する側になる現実に向き合いますと、きれい事ですまされることでなく自分の持っている「差別」の心をどのように捉えていくか考えざる得ません。
社会の中にある多くの「差別」について無くしていくことを目標に活動することは当然ですが、私の中にある「差別」の心は、無くすことができるのかと言うと、自分の中にある感情や感覚に関わる「差別」心はどうすることもできないものとして捉えてしまいます。
自分の中にある「差別」心を含む「悪性」にどうすることもできないと知らされるのは、阿弥陀様の目当てがこの私であったことを、親鸞聖人の「み教え」によって気づかされるからであります。この時は、愚禿悲歎述懐和讃がとても響きました。
私(住職)は、今の社会は以前より寛容ではなくなってきているように感じます。お寺のコミュニティはどのような方もそのままで安心して居られる場所として存在してきました。そしてこれからもそれが絵空事にならないよう努力していかなければならないと感じています。

『差別感情の哲学』中島 義道著 講談社
以前に読んだ本ですが、差別について考える時に改めて本を開きます。私が生まれてきて成長する社会の中で得てしまう「差別」心と私の中にある感情や感覚の「差別」心。
社会の中で差別が無くなることは大切であるが、差別を批判する時に自分自身の中にある差別する心に目を向けているかというと曖昧である。この本を読んで自分の中にある差別感情がどうすることも出来ないものとして捉えるように思った。また、本の中で使われた「差別のまなざし」と言う言葉が私の中でとても印象に残っている。