和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 天親讃3首

本願力にあひぬれば むなしく過ぐる人ぞなき
功徳の寶海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

弥陀の本願力に出遭うと、かいもなく終わる人は一人もいない。名号には功徳が海水のように満ち満ちているから、欲望に汚れた水も、差別なく同化してしまう。

※本願力は、我々を救わねばおかぬという、第18願の広大な働き。
※あひぬればは、『一念多念文意』に「遇はまうあふといふ。まうあふと申すは本願力を信ずるなり」とある。「ぬれ」は完了「ぬ」の巳然形。確定条件である。
※むなしく過ぐる人ぞなきは、『一念多念文意』に「むなしく過ぐる人なしといふは、信心あらむ人、むなしく生死にとどまることなしとなり」とある。救われない者はなく、必ず浄土へ生れるということ。
※寶海は、名号を宝の海にたとえる。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

如来の本願力をよくみて、これに遇いたてまつる眼を与えられ、信ずることのできた人には、生死にとどまり人生を空過(くうか)することがなくなります。本願念仏の功徳は、宝の海のように満ちあふれて、煩悩の濁った水も、満々たる宝海の中へ、へだてなくきらわず、融かされていきます。
ここは、『浄土論』の、仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。に当たりますが、「能令速満足」は次の第4首にまわります。
『尊号真像銘文』には、観仏本願力遇无空過者といふは、如来の本願力をみそなわすに願力を信ずるひとはむなしくここにとどまらずとなり。能令速満足功徳大宝海といふは、能はよしといふ、令はせしむといふ、速はすみやかにとしといふ、よく本願力を信楽(しんぎょう)する人はすみやかにとく功徳の大宝海を信ずる人のそのみに満足せしむるなり。如来の功徳のきわなくひろくおほきにへだてなきことを、大海のみづのへだてなくみちみてるがごとしとたとへたてまつるなり。と述べられますが、86歳の高齢を考えますならば、信心表現のきわまりでしょうから、重く読みたいと思います。
本願がもし無いということならば、煩悩成就のわれらとしては酔生夢死(すいせいむし)に終わることもいたし方のないことですが、われらをたすけんがために本願力がこちらへ迫っているのですから、本願に遇わないことは、こちらの罪です。この身が空過するならば、本願のご苦労を徒労に帰せしめます。それこそはからざる大罪となります。『入出二門偈頌』に、かの如来の本願力を観ずるに、凡愚遇うて空しく過ぐる者なし。と述べますように、遇うのは凡愚です。凡愚こそどうしても本願に遇うべく約束づけられていることを知ります。凡夫のたすかるのには如来の方から大きな力が要ります。
以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】