和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

正像末法和讃 第50首

南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり

「南無阿弥陀仏を如来から私に廻向された」と、これがこの和讃の中心点になる。浄土真宗の中心というものは、「南無阿弥陀仏の廻向」である。阿弥陀如来が南無阿弥陀仏という声になって、今私にはたらいているということです。「その恩徳というものは広大であって、私の計らいの及ぶところでない」と。南無阿弥陀仏に廻向されたということを、ここまで自分の中心問題として感じておられるところであります。感恩、如来のご恩を感じる、感によって恩がある。だから宗教心というものの中心は感ではないかと思います。如来の廻向を恩として感じる。仏法には業感という言葉があります。業感縁起。感じることによって業というものがでてくる。業として感じる、業感です。そういうこととこの感恩ということを思い合わせまして、「恩徳広大不可思議にまします」と。その恩を感じた内容を第3行目と第4行目にあらわされまして、「往相回向の利益を恵まれたそのうえに、そこに止まらず、還相廻向までいただくことになりました」と。廻入するであろうではなくして、「廻入せり」往相の廻向が自ら還相廻向に転入していく。廻入・転入・帰入、ひとりでに転回していく。そうしますと、廻入とか転入とかいう言葉で結ばれますのは、往と還・往きと還り、こういうように、私どもの受けとめ方は二つのかたちになるわけでありますが、もう一つ、私が往くためには、私のところまで来ていただいた力がある
もっと具体的に申しますと浄土真宗では聖人のことを「還相の菩薩」と仰ぎます。還相の菩薩というのは、浄土からこちらへ還ってこられた方。もう既に浄土を見て、われわれのところへその浄土を知らせるために出てこられたという仰ぎ方をしておるわけです。その人に触れるときに浄土を感じるのです。曽我量深師は、大還相という言葉を用いられる。私が浄土へ往けるのは、向こうからこちらへ道を開いて下ださった、向こうから私に浄土を告げにきて下さったからという。曽我量深師が大還相とおっしゃったのを少しして哲学者の田辺元博士が絶対還相、何ものにも先立って、まず還相があるといわれた。非常にたくさんの言葉を費やして、浄土真宗の教えというものの中心は、還相というところにあるとお説きになっておられるのであります。
浄土真宗といえば、阿弥陀如来という名前がでてくる。如ー来です。如というものはそのまま、もののあるべきそのまま。如というのは、真如とか如々とか一如とか、これは言いきれないものなのです。その真如・一如・真理が私どもの現実まで届いたものが真実、こういうことになるのでしょうか。真ということをこの私の身の上に証(あか)しして下さる、真が実となる。そうしますと、如という、本当のものが私の現実の上にかたちをあらわしてくる。如が来、如が来る、それが大還相なのです。だから真如が私の身の上に顕現する。その如来が来て下さった力によって、私が如来の方へ歩んでいくことができる。私が浄土へ向かって往く力も、還る力も同時に与えられる。往く力も還る力も与えるもの、これが如来である。これを往還二廻向とよぶわけであります。往相の背面に還相を感じます。
「往相廻向の利益には 還相に廻入せり」、聖人の和讃というものは、類歌とは全く別格のおもむきをもっておりまして、はかなさとか、あわれとか、ほのかというような、幻想の世界へ人を引き入れていく詠歌調というものを切って捨てた、豊かな浄土思想の髙い格調がたたえられています。如来が南無阿弥陀仏となり、その南無阿弥陀仏によって浄土へ生まれる、また浄土から還り来たって還相の眼をもって娑婆を見る、ということもみな、そこに成り立っていくのだという、そういう大いなるものに頭を下げて、自己の無力をというものを懺悔しておいでになる。いやむしろ懺悔できないことが懺悔と
なっている。そういう激しく厳しいもの、一点もゆるがせにすることはできないものがあるのです。こういう格調の高さというものが、繰り返し拝読しておりますと、私の身にしみ通ります。

以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】