和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
浄土高僧和讃 善導大師25首
弘誓の力をかぶらずは いづれの時にか娑婆を出でむ 
佛恩深く思ひつつ 常に弥陀を念ずべし 
 弥陀の広大な本願力を蒙らずして、いつこの迷いの世界を脱出することができようぞ。弥陀の御恩を深く思いつづけて、常に称名念仏せねばならず。
※「かぶらずは」の「ず」は「ずして」の意と見てよく、「は」は清音で係助詞であること、橋本進吉博士に説がある。
※「思いつつ」は、思いつづけることで、臆念相続の意。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
 今まで第一行「かぶらずば」と読み習うてきましたので、いつしかその発音に戻り易いのですが、教えられるままに「かふらずは」と濁点を取って読みます。『般舟讃(はんじゅさん)』の、 或はいわく今(きょう)より仏果に至るまで、長劫(じょうごう)に仏を讃じて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙(こうむ)らずしては、いずれの時いずれの劫にか娑婆を出でん。
との文によります。弥陀願力の恩は、大師の言々句々に貫通しております。
 弥陀の大きく包容摂取する本願力をこうむることなくして、いつどのような時にこの煩悩の尽きない娑婆界を超え出でることができましょうぞ。弥陀願力の恩を深く長く思いめぐらして、常に弥陀に念ぜられつつ称名念仏するばかりであります。
 「娑婆」については今の『般舟讃』にも「娑婆長劫の難」と見えるように、大師においては浄土に対面して真の在所ではないという深い思い入れがあったようです。「娑婆を厭捨して仏国を求めよ」というのが大師の本心でありますが、同時にこの娑婆の愛着が捨てられないことをよく知っていられたのです。娑婆は梵語のサハー、又はシャバーの音写にて、忍・堪忍・能忍の意です。堪忍しなければ生きられない、娑婆は思うにまかせぬところといわれます。更に「聖者と共に」の意が加えられて、聖者もしいまさずば悪苦に焼かれて生きられないところと聞いております。紫人と朱人とは長年にわたる親しい隣人。紫人の息男が事故死してその遺骸が帰り、これを弔問した朱人が合掌して「娑婆じゃの」と漏らしたのです。この一言が一切を言い尽くしているのです。悲しみのきわまりないのですが、娑婆の一語が救いをもたらしているのです。当てにならないものを当てにして生きることのなしさがこみあげているのです。眼前の悲惨に戦慄しつつ、これが娑婆のならいと知る人は、驚きを内省せしめます。流れる雲に声あるように、
生死無常のことわり、くわしく如来の説きおかせおわしまして候へ、おどろきおぼしめすべからず候。
と響流するのは、娑婆に対面する浄土あればこそです。娑婆という、わたしの実在を射当てた不滅の用語が、無残にも死語と化されつつあります。このようにして娑婆というこよなき実在用語を捨て、威徳ある他力に不感症となり、生きる生きると叫んで往生の大義を失うのは、どこに業のゆがみがあるものなのでしょうか。
以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】
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