和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 曇鸞和尚 26首

如来清浄本願の 無生の生なりければ
本則三三の品なれど 一二も変わることぞなき

浄土に誕生することは、この世に於けるごときいのちを得ることではなく、阿弥陀仏の清浄な本願から頂く、ほろびることのない生命であるから、この世でこそ九種の宗教的素質の人がいるけれども、浄土に生まれればみな平等で、なんら変わることがない。

清浄本願は 煩悩を滅し盡くした清浄な心から生れ出た本願。
無生の生は 消滅を超越した、絶対永遠の生。曇鸞の造語。
本則の三三の品は 論註に「往生を願う者。本(もと)は則ち三三の品なれども、今は一二の殊なし」とあるに依る。本はこの世。三三の品は、観経に説かれた上上品から下下品に至る善悪九種の人間の品等。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

第2行の左訓は、「六道の生を離れたる生なり。六道四生に生まれること、真実信心の人はなき故に無生という」第3行は「本は九品の衆生なり」です。九品は『観経』に説かれた九つの品種、上上・上中・上下は大乗の善人、中上・中中・は小乗の善人、中下品は世間の善人、下上・下中・下下は世間の悪人という分け方です。
彼の浄土は、弥陀如来の清浄な本願によって開かれたところだから、その生まれ方も、三有虚妄、六道四生、流転輪廻の生ではないのです。娑婆界においては九品種に分かれていましょうとも、往生を願い同一に念仏して真実信心を得た人は、一とか二とかのわけへだてのない、浄土の平等性を楽しむのであります。
この曇鸞の「無生の生」に浄土の真実義を見い出された祖聖は、どれほど帰伏されたことでしょう。しかも世人をして浄土往生へと心を傾かせるには、方便化身の浄土を説かざるにおれないという、苦しみがあったのです。浄土へ生まれるといっても、明けても暮れても妄執しているこのわたくしが少し形を変えて、今よりうんとよくなることだとの妄分別を、無明として破りたいとの志願が燃えていたのです。我執がつくりあげた、こうであろうかという浄土や涅槃は、自己内心の虚像にすぎません。道元禅師が、「さとりもおぼえしがごとくにてもなし。かねておもふ、その用にたつべきにあらず」と言われましたように、胸の中で予定しこしらえたさとりは、張り子の虎で不住涅槃の立ち上がりはできません。
『入出二門偈』には、「諸機は本(もと)すなわち三三の品なれども、今は一二の殊異なし。同一に念仏して別の道なければなり。なお淄澠(しじょう)の一味なるが如きなり」と、『浄土論』を偈讃されますが、淄水と澠水との2つの河が流れて一味平等となると、譬えるのであります。

以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】

六角会館
京都の六角堂はご存知でしょうか。京都の中心にあるお寺です。
私(住職)が思い浮かべることは、親鸞聖人が参籠されたお寺です。六角堂のHPには、「鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞は、建仁元年(1201)二十九歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得ました」とあります。
本堂には「親鸞」額もあり少し親しく思いました。
六角堂と言いますがお寺の正式な名前は、「頂法寺」ですが、本堂が六角形の造りで六角堂と親しく呼ばれています。また、いけばなの発祥地としても有名です。室町時代の住職が仏前に華を供えることから工夫をして「いけばな」が生まれたそうです。


六角堂の前にある六角会館は、明治時代からこの地で女性が中心となり慈善活動等され、昭和初期に京都仏教婦人会と名をあらため今に至るそうです。毎月仏教講座を開催されていることは知っていましたが伺うのは初めてでした。参加したのは「親鸞聖人の和讃に学ぶ」で、資料をいただいくと丁度、曇鸞讃の第25首26首で今月お寺のHPで紹介する曇鸞讃26首が含まれていましたのでうれしく思いお話を拝聴しました。