伝わる法話 「み教え」は法話で伝わっている?

伝わる法話 「み教え」は法話で伝わってるか?
真宗は「お聴聞」が基本です。私が阿弥陀仏のはたらきに気づかせていただくことを布教使様から何度もお聞かせくださいます。
布教使様からお聞かせ頂くお話しを、「お取り次ぎ」・「お説教」・「ご法話」と総称していますが、この「お取り次ぎ」・「お説教」・「ご法話」が、お聴聞されている方々に伝わっているのか?
お伝えする側から考えますと、妙華寺でお聴聞できる場は、お寺の5つの行事(春秋の彼岸会・春秋の千部会・報恩講)のご法話の時間だけです。その場に立つときは、布教使として、初心者であろうが、経験豊かな者であろうが、その時の聴衆へ私(布教使)が阿弥陀仏のはたらきに気づかされことをその時の聴衆と共に讃嘆できるようなお話しを心がけているのでしょうが中々そのようにはならないのが現実であります。ご法話はこの私が阿弥陀仏のはたらきに気づかされた物語です。その物語をお伝えするには自分の経験や学びを交えてですが、表現力も必要でしょうし、その物語自体の構成も大事だと思います。ご法話の後あれもこれもダメだったと反省しきりの布教使でありますが、お聴聞くださる方々は、批判や反論を言うわけでもなく、これまでお聴聞されてきたご法話の中からやご自身のご領解(りょうげ)で、今日のご法話を補いながらご自身の物語としてご法話をお聴聞してお帰りになります。とても温かく優しく布教使をお育てをしてくださっている背景には同じ物語を共有する世界があり仲間(同行)であるからだと思います。
現代の多様な価値観を認める一般社会の常識から見ると不思議な光景なのかもわかりません。また、真宗では自分の愚に気づいて翻っていく世界でありますが、愚に気づくことが、今の時代の考え方の中では否定的(マイナス)に感じ(見)てしまうようで、伝わりにくい事であるのかもわかりません。これまでも長い間、指摘されてきたことですが、ご法話の内容が初めてお聴聞される方々には伝わらないので、お寺の行事への参加者も少なくなり、お寺が以前より閑散として衰退していき、仏教自体が一般社会から見限られていく一因だと言われています。
今後は、これまでのような僧侶(布教使)とお同行様を共にお育てをいただく場がなくなり、ご法話いただく場には、阿弥陀様と畳と柱しかいない日が来るのだと思います。それでもご法話をよりどころとして「み教え」を伝える覚悟を問われるところです。覚悟だけで今のお寺の問題が解消するわけではありませんが・・・伝わる法話に精進していかなければならないのでしょう。
また違う言葉で言えば、法話は法施と考えても良いと思います。法施とは布施の1つで、「布施とは梵語ダーナの意訳 檀那・檀と音訳する。他に与えること、施しの意。財物を施すことを財施、法を説くことを法施、無畏(おそれなき心)を施すことを無畏施といい、総称して三施という」とあります。
私の法話(法施)がお同行の皆様にちゃんと伝わっているのか省みながら精進していきたいものです。
 住職としては、このような時代でありますが、ご法話をご聴聞くださる皆様がここ妙華寺にいてくださることが大変有難いことであります。阿弥陀仏のはたらきに気づかせていただくご縁を大切にして、皆様と共に聴聞させていただきます。

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