10月の日曜学校

10月の日曜学校は衣替えをしましたが、前日から蒸し暑い日でした。
9代実慧(じつえ)上人を紹介しました。大正時代に親鸞聖人650回遠忌のお勤めがありそれに向けて境内の整備をされたようです。先代(8代)に続き、今の境内にある構築物はこの時代に整備されています。そこにはお同行の皆様のご理解・ご協力があってのことです。
以前お寺のHP【 2016-10-07】で紹介しました『お寺の2つの碑』の1つ「浄土三部石経塚」は実慧上人が亡くなる前年に完成しています。改めて紹介します。

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妙華寺の2つの碑【お寺のHP 2016-10-07】
本堂の向かって右側に2つ碑があります。
「戦没者慰霊碑」と「浄土三部石経塚」とあります。隣の「戦没者慰霊碑」と土台が同じ形態ですので建立は昭和27年と思っていましたが碑の裏側に大正10年にあった碑が損害甚だしく昭和12年1月に修繕し直したとありました。この「浄土三部石経塚」の碑は、大変信仰の篤いお同行様が、妙華寺の敷地の小石に浄土三(部)経2万6千6百12文字を書き碑の下に埋めたとあります。また。「浄土三部石経塚」の碑の彫字の元は、法隆寺の管長の佐伯定胤猊下の真筆とあります。

また、今の「浄土三部石経塚」の以前のものと思われる小さな「浄土三部経石塚」の碑もあります(側面にこの碑が造られたのが天明●●年5月5日とあり天明年間の彫字が磨滅して判別できませんが江戸時代に小石に浄土三部経の文字を書いていたご奇特なお同行様がいらっしゃったのでしょう)、今ある「浄土三部石経塚」の碑の場所かどこか違う場所にあった小さな「浄土三部経石塚」の碑を大正10年に新たな信仰の篤いお同行様が、小石に浄土三部経の文字を書かれて碑を造られましたが損傷しましたので昭和12年に今の碑に修復されました。昭和27年に、「浄土三部石経塚」の隣に同じ形で「戦没者慰霊」碑を建立したようです。
※尚以前の小さな「浄土三部経石塚」の碑は、現在、樹木の元でのお墓の中心に据えられています。
【参考】佐伯 定胤(さえき じょういん)慶応3年6月25日(1867年7月26日) – 昭和27年(1952年)11月23日)は、日本の法相宗・聖徳宗の僧侶、仏教学者。